地味だが便利な「横浜市民の足」根岸線の7つの謎 全線開通50年、京浜東北線との境はどこ?
根岸線の建設が再び俎上に上がったのは、戦後の1952年のことだった。横浜市は、戦災復興から発展への活路の1つとして根岸湾の埋め立てによる臨海工業地帯の造成を計画し、その輸送動脈としての根岸線誘致を運輸省(当時)や国鉄に強く働きかけたのである。
だが、この根岸湾埋め立て計画に対しては、地元の漁業者による大規模な反対運動が起きた。埋め立て事業が実現しなければ貨物輸送が生じないことから根岸線建設も危ぶまれたが、市側の粘り強い姿勢と、漁業者側が「大局的判断を下す」(根岸駅前に建立された根岸湾埋立記念碑)ことによって、埋め立てに関する交渉は妥結した。
そして、1957年4月の第20回鉄道建設審議会にて、根岸線は即時着工線として決定。当時は桜木町―大船間を結ぶ路線ということで、「桜大(おうだい)線」という仮称が用いられた。桜大線ならば、起点は桜木町駅のはずだが、1964年5月に桜木町―磯子間の第1期線が開業した際に、横浜―桜木町間が根岸線に組み込まれたため、横浜駅が起点となった。
戦前は有力だった「横須賀線接続」案
■Q2:終点は大船ではなく北鎌倉の予定だった?
第1期線に続き、1970年3月には第2期線の磯子―洋光台間が延伸開業した。洋光台という、やや中途半端に思われる場所までの開業が急がれたのは、当時、日本住宅公団が200万㎡にもおよぶ住宅地造成事業(横浜国際港都洋光台土地区画整理事業)を施工中で、その完成が1969年度に予定されており、早期延伸が強く要望されたためだ。その後1973年4月、洋光台―大船間の第3期線が開通し、根岸線は全通した。
他路線との接続などを考えれば、終点が大船というのは今では当然のことと思われる。しかし、戦前の計画では、終点を北鎌倉として横須賀線に接続し、横須賀方面へ直通させる案が有力だった。
当時、根岸線は沿線で開発が構想されていた根岸・磯子の郊外住宅地への交通手段としての役割とともに、「需要の急増する横須賀線のバイパス路線としても期待」(『市史研究よこはま』)されていた。軍港・横須賀への接続が、経済的・軍事的観点から重要視されていたのである。
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