地味だが便利な「横浜市民の足」根岸線の7つの謎 全線開通50年、京浜東北線との境はどこ?

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横須賀方面への接続を主眼とするならば、途中に山があるため工事が困難で、予算も余計にかかる大船への接続は必須ではないと鉄道省は考えていたようだ。だが、これに対しては当然、平塚・茅ヶ崎方面からの旅客が大船で新線に乗り換えられるほうが便利という意見が出された。

終点を北鎌倉にするか大船にするかの問題は最後まで紛糾したようだが、1937年4月に改正された鉄道敷設法の別表には、今後、敷設すべき予定鉄道路線として「桜木町より北鎌倉に至る鉄道」と掲げられた。

なお、根岸線を横須賀線のバイパス路線として機能させ、横須賀線の混雑緩和を図るという考え方は、戦後の根岸線建設に向けた議論の中でも用いられた。しかし、最終的に横須賀線の混雑緩和に関しては、元は貨物専用だった品鶴線(西大井、武蔵小杉、新川崎を経由する現在の横須賀線ルート)の旅客転用や、横浜羽沢駅経由の貨物新線の建設など、線増による東海道線と横須賀線の分離という対策がとられたのは、周知のとおりである。

開業で激変した横浜市南部の交通

Q3:根岸線の開業で横浜市電が廃止になった?

根岸線開通以前、現在の根岸線沿線エリアの交通手段は、杉田を通る京急線を除けば横浜市電とバスだけだった。

このエリアの市電路線の形成過程を見ると、横浜市電の前身・横浜電気鉄道は明治末期から大正初期にかけて郊外へと路線を延ばし、1911年12月に本牧、1912年4月に八幡橋(現・磯子区中浜町)への路線を開通させている。関東大震災後には本牧―間門(まかど)間および、八幡橋から磯子経由で杉田までが開業している。

さらに戦後、朝鮮戦争特需で景気が上向くと、各方面への路線延長が行われる中、1955年4月、間門―八幡橋間が開通した。これによって、本牧経由でやや大回りではあるものの、桜木町駅前から杉田までの、今日の根岸線の東半分とオーバーラップする市電の路線が完成した。この頃に市電は路線長での最盛期を迎えた。

1960年 横浜市電路線図
1960年の横浜市電「運転系統図」(写真:横浜市電保存館)

しかし、そのわずか9年後に根岸線の桜木町―磯子間が開業すると、市電は大打撃を受けることになる。従来、磯子地区から桜木町まで市電・バスを利用した場合の所要時間は約50分を要した。それが根岸線の開通で13分に短縮され、しかも東京方面へ乗り換えなしで行けるようになり、多くの利用者が根岸線に流れた。

磯子区内を走る根岸線103系
根岸線沿線風景。磯子区内を走る根岸線=1982年4月(写真:横浜市史資料室)

こうして、1950年頃から1963年まで約30万人/日で横ばいが続いていた市電利用者数は、根岸線開業翌年の1965年には25万人/日へと大きく落ち込み、以降は減少の一途をたどった。モータリゼーションが進展し、市営地下鉄建設の検討も始まるなど、いずれにしても市電は消えゆく運命にあったのだが、根岸線の開業は市電廃止への決定的な一撃となったのである。

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