地味だが便利な「横浜市民の足」根岸線の7つの謎 全線開通50年、京浜東北線との境はどこ?
■Q4:東海道新幹線の建設が根岸線工事に影響した?
根岸線建設工事は、神奈川県下における設計協議、用地交渉等が新幹線の建設工事と関連があったため、新幹線建設工事を担当した国鉄の東京幹線工事局が担当。1964年3月に日本鉄道建設公団(現在の鉄道建設・運輸施設整備支援機構)が設立されると、以後の工事は同公団に引き継がれ、桜木町―磯子間の第1期線が1964年5月に開業した。
同年10月に東京―新大阪間が開業した東海道新幹線と工事施行期間が重なったため、根岸線の建設工事は、「労力調達の面でも、東海道新幹線の工事施行と並行し、必要人員の確保に困難が多かった」(『根岸線工事記録』日本鉄道建設公団)という。
ほかに、他路線の工事が根岸線の建設工事に影響を与えたものとして、東海道線の線増工事があった。東海道線の線増にともなう大船駅の改造工事との関連設計(根岸線の大船駅乗り入れ形態などの検討)が必要になったため、洋光台―大船間の第3期線のうち、本郷台―大船間の工事を先行させなければならなかった。
用地確保の難しさが生んだ「水上駅」
■Q5:関内駅は運河の上に建てられている?
根岸線誘致は横浜市にとって悲願であり、用地買収が困難な桜木町―関内―石川町間の市街地においては、大岡川系統の運河(派大岡川)を高架橋建設のため鉄道用地として提供するなど、市は全面的な協力を行った。
これにより用地確保がスムーズに進んだ反面、この運河地帯は江戸時代に埋め立てられる以前は東京湾の入江だったため、基礎地盤の上に砂礫層が1~7m、さらにその上に粘土質シルトが堆積し、基礎地盤に達するまで50mもあるような場所が存在する軟弱地帯であり、杭打ち等の高架橋の基礎工事は大変な作業だったという。
こうした背景から、開業当時、市街地区間の根岸線は運河上を走り、関内駅は運河上に位置する「水上駅」だった。後に首都高建設にともない運河は埋められ、「水上駅」の面影はなくなったが、駅付近にある横浜市役所旧庁舎(今後、ホテルとしての保存・活用が計画されている)などが、当時の記憶を今につないでいる。
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