震災「復旧」や「復興」を超えるビジョン「創新」が必要だ--後藤新平、カリフォルニア州サンタクルーズに学ぶ
関東大震災発生の翌日、後藤新平は、内務大臣として入閣し、東京の復興に関する方針を作り、実行に移そうとした。彼は直ちに「遷都を否定」した。壊滅した東京から首都が移されるのではないかとのうわさが広まる中、首都圏在住者の不安を払拭したのである。
そして、9月1日の震災からわずか3日後の9月4日には、後藤新平は閣議に「帝都復興の儀」を上申した。その内容は、
(1)帝都復興の基本政策を審議・決定する機関の設置
(2)帝都復興事業の国費による実施、財源は内外債による
(3)焼失区域の全域を一括買収し、整理した後、それを払い下げ、または貸し付ける
というものであった(出典:http://www.araki-labo.jp/jecono42.htm)。
そして、「帝都復興の儀」の中には、東京が焦土と化したこの悲惨な状況を逆に絶好の機会と考えるべきだという趣旨が述べられている(出典:http://www.waseda.jp/sem-muranolt01/KE/KE0206.htm)。
まさに単なる「復旧」を超える「復興」を企図していたのだ。
筆者の私見では、関東大震災復興のポイントは以下のとおりだ。
■1 復興のリーダーの存在
関東大震災では内務大臣と帝都復興院総裁を兼ねる後藤新平がリーダーとして取り仕切った。
■2 復興を一元的に担う組織の存在
関東大震災復興においては、「帝都復興院」が設置され、一元的に責任を担った。一方、阪神・淡路大震災の復興では総理大臣をトップに関係大臣をメンバーとする「阪神・淡路復興対策本部」が2000年までの5年間総理府に置かれた。
■3 「復旧」でなく「復興」が進められた
関東大震災の復興においては、災害前の状態に戻す「復旧」ではなく、新しく都市を抜本的に設計し直す「復興」が後藤新平により進められた。
後藤の先見の明が正しかったことは今日においては証明されていると思う。しかし、後藤が「復興」つまり、抜本的な都市改造を主張した一方で、震災前の状況に東京を戻す「復旧」を主張する伊東巳代治(枢密院顧問、帝都復興審議会委員)との激しい論争となったことにも記憶をとどめるべきである。