あつま路の道のはてよりも、なお奥つ方に生い出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひ始めけることにか、世の中に物語といふ物のあんなるを、いかで見ばやとおもひつつ、つれづれなるひるま、宵居などに、姉、継母などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ。
いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏をつくりて、手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、「京にとくあげ給て、物語の多く候ふなる、あるかぎり見せ給へ」と、身を捨てて額をつき、祈り申すほどに、十三になる年、上らむとて、九月三日門出して、いまたちといふ所に移る。
※以下、原文はすべて『新編 日本古典文学全集26・和泉式部日記/紫式部日記/更級日記/讃岐典侍日記』(犬養廉ほか訳注、小学館、1994年)
<意訳>私は東海道の果ての国、常陸よりもっと奥にある、上総国で育った。当時、私はずっとある祈りを捧げていた。
「世の中に物語ってものがあるらしい。なんでもするから、どうかそれを読ませてください……!」
暇がある昼間や夜。私の姉や継母は、昔読んださまざまな物語、あるいは光源氏の話について語っていた。その話を聞いているだけで、もう読みたくて読みたくてしょうがない。でも残念ながら、彼女たちは物語のすべてを暗記しているわけじゃないのだ。どうにかして前文を読みたい。
少女だった私が「物語読みたい熱」をぶつけた結果。私は、自分と同じ背丈の薬師仏を作った。そして手を洗って清め、だれもいない時間帯に、こっそり仏間へ入った。
「お願いですから私を都会に行かせてください。そして京にたくさんあるらしい物語を全部読ませてください!」
私は一心不乱に額をついて祈った。すると13歳のとき、なんと父の仕事の関係で上京することになったのだ!
私は『更級日記』を読むたび、共感できるポイントの多さに驚いてしまう。「地方だから全然蔵書がない……都会に行って思いっきり本を読みたい!」と願い続ける、地方の文学少女。彼女がおこなった努力は「自分と同じくらいの大きさの仏像(!)を作る」だった。平安時代の人々は信心深かったのである。
そしてその信心深さの結果、菅原孝標女は無事都会へ引っ越せたのだから驚きだ。ここから彼女の物語オタクライフは始まるのだ。
仏像を彫ったエピソードを書き出しにした「更級日記」
しかし面白いなと思うのが、このエピソードが『更級日記』の冒頭を飾っていること。上に挙げた引用は、現存する『更級日記』の書き出しなのである。というのも「平安時代の女性の日記」ときくと、普通の人だったらぼんやりと「結婚の思い出」とか「男性と和歌をやりとりした思い出」を想像してしまうのではないだろうか。
少女だった自分を思い出すエピソードとして、まさか「物語が読みたすぎて仏像を彫った」話が飛び出てくるとは思わないだろう。『更級日記』を読むと、平安時代であろうといつの時代であろうと、フィクションを心から愛するオタクって存在していたんだ……と感動してしまうのだ。きっと「仲間だ!」と思う現代のオタクの方々もいらっしゃるのではないか。
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