「内村さまぁ~ず」復活!3人が築いた偉大な功績 さまぁ~ずと内村光良がこれまで歩んできた道

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三村マサカズは、ふかわとともに番組レギュラーとなり、相方の大竹一樹、TIMが準レギュラーとして活躍。2003年には、内村を含む6人で音楽ユニット「NO PLAN」を結成し、メジャーデビュー。『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)や『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(フジテレビ系)といった音楽番組にも出演して話題となった。

その後、このメンバーは内村が監督を務めた『ピーナッツ』(2006年公開・コムストック)にも出演。さまぁ~ずは、前述の『内村さまぁ~ず』へと共演が続いていく。

『内村プロデュース』の頃から、さまぁ~ずは先陣を切って内村を笑わせていた。同じコント師としてデビューしていること、ほぼ同世代の芸人という親近感もあって共鳴し合うものがあったのかもしれない。

長らく低迷したさまぁ~ず

現在の活躍からは想像しがたいが、2組にはどちらも不遇の時代があった。

さまぁ~ずは1988年の結成当初、「バカルディ」というコンビ名だった。デビュー間もなく期待の若手としてテレビ・ラジオに出演し、1993年にはホンジャマカとのレギュラー番組『大石恵三』(フジテレビ系)がスタート。幸先の良い流れだったが、番組は半年で終了し、以降長らく苦汁をなめることになる。

その後、ナインティナイン、よゐこ、極楽とんぼら、後の『めちゃ×2イケてるッ!』(フジテレビ系)で活躍するメンバーが台頭。1990年代後半からは『ボキャブラ天国』(フジテレビ系)シリーズの中で若手芸人中心の“ボキャブラブーム”が巻き起こった。

バカルディは、「何でダジャレ言うんだ」と懐疑的だったことに加え、「(筆者注:出演メンバーの多くが)ちょっと下の世代だった」ことを理由に番組の出演オファーを3度断っており、この波に乗ることができなかった(2020年11月23日放送の『さまぁ~ず論』 (テレビ朝日系)より)。

三村は番組のリポーターを務めるなど細かい仕事も必死でこなし、大竹はバラエティーの放送作家を担うなどして何とか道をつないだ。2000年に『新・ウンナンの気分は上々。』(TBS系)の企画にて「さまぁ~ず」に改名。ここから徐々に再ブレークしていった。

逆に内村は、さまぁ~ずが勢いに乗り始めた2005年に『内村プロデュース』が終了。同番組で共演したアナウンサーと結婚した影響もあったのかもしれない。以降2年ほど、個人・コンビともにレギュラー番組が激減し、単発の特番が多かった時期がある。

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