セコム創業・飯田亮が89年貫いた「艶っぽい」人生 生まれながらの事業家が究めたビジネスデザイン

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「これからセコムはどのような会社になってほしいですか」と聞くと、飯田氏はこう答えた。

「若い人たちがセコムとまったく違う会社をつくればいいんだ」

飯田家は機を見るに敏な血筋である。徳川家康が江戸幕府を開くと、家康の出身地である三河(現・愛知県東部)の人々がたくさん江戸へ移り住んだ。飯田家も一族揃って移住したそうである。そして、飯田氏の曾祖父は油問屋を営み、明治になりガス灯が出現すると油に見切りをつけ、味噌、醤油、酒の小売りを始めた。そして、父の代に卸売業に転じた。

飯田兄弟も「人に雇われる身にはなるな」という父の教えを実践し、長兄の博氏は、家訓に従い岡永を継いだが、承継するだけでなく革新にも力を注いだ。1975年に、全国約120社の蔵元が丹精こめて造った良質の日本酒を、全国1500店あまりの酒販店を通して流通させるボランタリー組織「日本名門酒会」を設立。次兄・保氏は、居酒屋チェーンのパイオニアとして発足した外食のテンアライド、三兄・勧氏は、流通業界で台風の目となっている成長株のスーパー・オーケー、そして、飯田氏はセコムを創業した。飯田氏と同様、いずれの兄も人当たりの良い「商人」らしい人であり、それぞれの業界でイノベーションを起こした。

「生まれ変わったら?」という質問への答え

飯田氏のイノベーションは兄たちを凌いだ。1966年に開発した日本初のオンライン安全システム「SPアラーム」だ。センサーと通信回線を利用し、異常発生時にのみ社員が駆けける機械警備である。セコム成長の原動力となった。

飯田氏は、「生まれ変わったら、どのような人生を送りたいですか」という質問に次のような「艶っぽい答え」を返している。

「アメリカで生まれたい。まずアメリカンフットボールの選手になり、次いで歌手になり、最後は事業家で締めくくりたい」

やはり、生まれながらの事業家であった。天国でどのような事業を始めるのだろうか。

合掌。

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