科学技術が進化しても、宗教はなくならない理由 神に人間が服従するのは理不尽な幻想なのか

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宗教に対して、しばしば批判されるのは、それが科学的に論証されない思惑だと見なされる点です。宗教で神について信じていても、はたして「神が存在するのか?」論証できないと言われつづけてきたのです。

逆に、「神が存在する」を論証したなどと言おうものなら、オカルト的な心霊主義と見なされてしまいます。こうして、宗教とは、科学的に証明できないものを、いわば迷信のように信じることだとされるのです。

「信じる」ことは論証されていなくても、きわめて重要

しかし、こうした言い方は、注意しなくてはなりません。「信じる」ことは論証されていなくても、きわめて重要だからです。たとえば、オーストリア出身の哲学者ヴィトゲンシュタインは、亡くなる直前まで書いていた『確実性の問題』のなかで、次のように述べています。

私たちは子供のときさまざまな事実を学び、たとえば、どの人間にも脳があるということを学び、そしてそれらの諸事実を信じてきた。私は、オーストラリア大陸があり、その形はかくかくであることを信じている。また、私には祖父母があり、私の両親だと言っている人が私の本当の両親であるということを信じてきた。こうした信念を決して言葉に表したり、それが事実であるなどという考えを抱いたことなどないとしてもいいのだ。(『確実性の問題』)

こうした「信じること」の対極に立つのが、「疑う」という態度です。近代哲学の創始者デカルトは、真実を手に入れるために、すべてを徹底的に疑うという方法的懐疑を遂行しました。そのために、彼は、他人から教えられた知識や、感覚を通して受け取った知識、数学などの理性的な知識も、いったんはすべて疑うことにしたのです。

ところが、ヴィトゲンシュタインは、疑うことができるためには、まず学ぶことが必要であり、そのためにはさらに信じることが前提される、と考えています。つまり、デカルトのように疑うためには、あらかじめ信じていることが必要なのです。

すべてを疑おうとするものは、疑うところまでたどりつくこともないだろう。疑いのゲーム自身、すでに確実性を前提しているのだ。疑いえないものに支えられてこそ、疑いは成立する。(同書)
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