数は何事もなかったかのように、立ち去る沙紀の背に向かって「いえ」と答えただけである。
「数さん、雪華さんて確か、二か月前に……」
菜々子が怪訝な表情でささやいた。最後は何を言ったのか聞きとれない。
「ええ」
「じゃ、なんで『今日は、まだ』なんて嘘を?」
数の返答に、噛みついてきたのは玲司である。
おそらくは、数と沙紀の態度になんらかの疑問を感じているのだろう。
「今は……」
数は玲司の質問には答えず、そう言って林田を見た。話の途中である。
「あ、すみません」
玲司は申し訳なさそうに林田に頭を下げた。
「いえいえ、気にしないでください」
林田には、もう、話すべきことは何もなかった。サングラスをかけ、朝から晩までここに居座っていた不審な男であることに、一番ストレスを感じていたのは林田自身だった。いつ通報されるかと、肝を冷やしていたかもしれない。すべて話して、気持ちも楽になった。
だから、
「今日は失礼します」
そう言って、立ち上がった。
昼も近い。店内がこれから混んでくるのを気づかったのだろう。
「もし、轟木がここに現れたら、あの人が席を立つ前に連絡いただけますか?」
会計をすませた林田は、こう言って、自分の名刺を残して去った。
見送りに出た幸が、寂しそうに林田の姿が見えなくなるまで小さく手を振っていた。
林田が去ったあと、店内は一気に忙しくなった。だが、菜々子もいてレジ打ちなどを手伝ったこともあり、ホールはそれほど大変ではなかった。厨房で一人奮闘する流に、幸がずっと「がんばれ、がんばれ」と声をかけていた。
観光地のランチの時間は長くない。せいぜい、一時間半程度である。それが終わった今は、ゆっくりと窓の外を眺めながらお茶する数組のカップルがいるだけである。
「まだ雪華さんの死を受け入れられてないそうです」
玲司と菜々子が、カウンターで一息ついていると、ふいに数が、
「先生の話だと……」
と、語りかけてきた。先生というのは精神科医である沙紀のことに違いない。
それが、ランチタイムの途中で中断していた麗子の話であることは、二人にもすぐわかった。
数は、麗子が妹の所在を尋ねたのに対して、今日はまだ来ていないと答えた。しかし、麗子の妹、雪華は二か月前に亡くなっている。そのことはバイト仲間の玲司も、そして菜々子も知らないわけがない。二人は、数がなぜそんな嘘をついたのか、その理由が気になっていた。
数は、仕事の手を止めて、
「麗子さんは、まだ雪華さんの死を受け入れられてないそうです」
と、説明した。
つまり麗子は、亡くなった妹を探してさまよっているということになる。
「そうだったんですか」
玲司が、悲しそうにつぶやいた。
菜々子は口元に手を当てて言葉を失っている。
「だからできるだけ、麗子さんの話に合わせるように、先生から頼まれていたんです」
数は、それだけ言うと、再び手を動かしはじめた。
夕暮れ時。
店内の、目に映るものすべてがオレンジ色に染まる。この喫茶店が忙しいのはランチだけで、この時間は暇になる。
「……え?」
一息ついていた流が頓狂な声をあげた。
その原因は玲司の一言である。
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