ライフ創業・清水信次が壮絶人生96年で得た悟り 動乱を生き抜いて流通界に多大な影響を残した
清水氏は、ライフと忠実屋、いなげや、長崎屋の中堅スーパー4社を合併して年商1兆円規模のスーパーを目指すという構想を提案し、小林氏とタッグを組もうとした。だが、バブル崩壊により、秀和は資金繰りで行き詰まる。
そこで助け舟を出したのが、首都圏市場での劣勢を挽回するため、忠実屋、マルエツを傘下に取り込もうとしていたダイエーの中内氏である。秀和が買い占めていた流通株を担保に1100億円を融資した。ところが、その後、ダイエーの経営ががたつき始め、中堅スーパー大団結構想も絵に描いた餅となってしまった。
不幸中の幸いというべきか、清水氏のライフは、この話から身を引いていたので、返り血を浴びずに済んだ。清水氏が規模を追わず、を旨とするようになったのも、この1件が大きなきっかけになったようだ。
海外、とくに中国に進出しなかった理由
日本の小売業各社が、中国、東南アジアを中心に海外進出に力を入れ出してから久しいが、清水氏は米中関係が悪化し、世界が分断へと向かう以前から、「私の目が黒いうちは、海外進出を認めない。とくに中国進出は」と語っていた。その理由は、「戦中、戦後、満州で起こった悲劇を知っているから」である。歴史認識からカントリーリスクを想定していたのだ。
清水氏と中内氏はいずれも、ビジネスをスタートした場は、闇市であった。闇市は、しょせん「闇商売」である。大儲けできたが、リスクも伴う。
清水氏は、機を見るに敏だった。闇市での商売に見切りをつけ、東京へ向かった。到着すると、上野のアメ横(アメヤ横丁)の光景を見て衝撃を受ける。アメリカ軍から横流しされた品が山のように積まれていた。清水氏はGHQ(連合国軍総司令部)からそれらの品を直接入手し販売し始めた。筆者がインタビューした際も、GHQに乗り込んでいったときの武勇伝について話してくれた。特攻隊で地雷を抱えて穴に潜り込んだときと同様の肝の据わりようを感じた。
こうした「食べていくため」「生きていくため」に行った行動を、「戦後成金」と揶揄されるのを嫌い、後に隠したがる長者もいたが、清水氏はあからさまに話した。この点は、中内㓛氏と共通している。
2人は、多くの国民を犠牲にした戦争が許せなかった。清水氏は、特攻隊で訓練を受けていた頃から、この国はいったい何を考えているんだ、と庶民の命、人生まで牛耳る国家に疑問を持っていた。戦争で破壊された焼け跡で生き抜くために、消費者が商品を求めているのに、これしきのことをやって何が悪い、という国家への反発もあったのだろう。清水青年を闇市で助けてくれた「大阪のおっちゃん」や「大阪のおばちゃん」という庶民の本音も同じだった。
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