なぜか心霊スポット化「北条滅亡の地」何がある? 約870人が自害したとされる「腹切りやぐら」の今
山道を通り、「腹切やぐら」と書かれた石碑が見えたのはよいのですが、その前には「立入禁止」の札が付けられたロープが張られていたのです。「落石危険」ともあり、通行止めになっていたのでした。
腹切りやぐらのある祇園山ハイキングコースは、令和元年の台風被害の影響により、現在に至るまでも立ち入り禁止区域になっていたのです。当然、これ以上は進むことはできません。
ちなみに、「腹切やぐら」と書かれた石碑には「霊処浄域につき参拝以外の立入を禁 宝戒寺」と書かれていました。
宝戒寺は北条氏滅亡後、その霊を弔うため、足利尊氏によって鎌倉に建立されました(宝戒寺がある場所には、北条義時以来の歴代の執権邸があり、宝戒寺は北条高時を德崇大権現として祀っています)。その宝戒寺が参拝以外の立ち入りを禁じているのです。
なぜか? その場所が「霊処浄域」であるからというのが理由でしょう。合戦により、多くの人々が亡くなった場所。その場所に面白半分で立ち寄ることを禁じているのです。参拝以外の立入は、死者を冒涜することにつながると判断されたからでしょう。
腹切りやぐらを参拝できなかった私は、宝戒寺に参詣。北条高時を祀る「德崇大権現堂」にお参りしてきました。
北条氏だけではなく、三浦氏のやぐらもある
鎌倉には、三浦氏の「やぐら」も存在します。三浦氏と言えば三浦義村、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」においては、俳優の山本耕史さんが好演している鎌倉時代前期の武将です。その義村の次男が三浦泰村。
父の死後(1239年)、家督を継ぎ、いつしか藤原頼経(鎌倉幕府4代将軍)に接近。鎌倉北条氏を脅かす存在となっていくのでした。当然、北条氏とは軋轢が深まり、宝治元年(1247)6月、鎌倉で火をふきます。いわゆる宝治合戦が勃発するのです。
時の執権は、北条時頼(第5代。北条泰時の孫)。時頼が三浦氏を挑発し、謀略を用いて、合戦に持ち込み、三浦一族を滅亡させてしまうのです。三浦泰村以下一族276人は、源頼朝(鎌倉幕府初代将軍)の墳墓堂である鎌倉の法華堂にこもり、自害したと伝わります。
ちなみに、その法華堂から60メートルほど離れたところには、三浦一族が供養されている「やぐら」があります。
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