宗教がわかってない人は「神様」の意味を知らない 証拠がなくても「いる」と思う、それが「信じる」
そこで、ここでは本書のなかから、私のようにキリスト教とは距離のある人間の心のどこかにあるであろう問題に焦点を当てた2つの質問と、それに対する答えをピックアップしてみたい。
神さまは、いますか
いないのなら、キリスト教なんて、意味ないと思います(14ページより)>
著者の橋爪氏はこの質問を「よい質問です」と評価したうえで、「神さまがいる、という証拠はありません」と答えている。誰も神さまに会うことができないから、というのがその理由だ。
もし神が世界を造ったのであれば、その世界のなかに神がいないのは当たり前なのだという。したがって、「神がいない」という証拠もないのだと。
なにかが「存在しない」ことを証明するものは、すみずみまで捜して見つからないという事実。しかし世界をすみずみまで捜して、神がみつからなくても当然だというのだ。なんだか頭がこんがらがってくるが、「子ども部屋をすみずみまで捜して、親がみつからなくても、親が存在しないことにはなりません」といわれれば、「まぁ、そうかな」という気にはなる。
いずれにしても、「神がいる」という証拠はなく、「神がいない」という証拠もない。“証拠”という観点においては、どちらとも決まらないということだ。どうあれ、次の記述を目にすると多少なりとも霧が晴れるような気はする。
神がいると思っているひとは、証拠があるからそう思っているのではありません。証拠がなくても、そう思うのです。これが「信じる」です・(15ページより)>
同じように、神がいないと思っている人は、証拠があるからそう思っているわけではないのだと橋爪氏は指摘する。そういう人は証拠がなくてもそう思うものであり、神がいないと「信じている」ということ。つまり、これは証拠の問題ではなく、「自分でどう決めるか」の問題であるというわけだ。
A. 神がいると思って生きる
B. 神がいないと思って、生きる
どちらがいいとか悪いとか、優れているとか劣っているとか、いちがいに言えません。自分の生き方をそう「決めた」ことに、責任をもって生きるなら、それは立派です。
このほかに、三番目も、ないわけではありません。
C.神がいるのかいないのか、はっきりしないまま生きる
つまり、「神様は、いますか」という質問に、自分では答えないまま、生きるのです。それでもかまいませんが、AやBと違って、はっきりしないので、人生の大事な問題に答えられなくなるかもしれません。(17ページより)>
いわば重要なのは、自分でどう考えるか「決める」ことだということだ。
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