大磯、「海水浴」の一般化と鉄道駅開業の深い関係 山県有朋や吉田茂が邸宅を構えた海岸の別荘地

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その後も城山荘は三井家所有だったが、1970年に名古屋鉄道(名鉄)へ所有権が移った。名鉄は1965年に博物館明治村を愛知県犬山市に開設しており、そこに如庵を移築。城山荘の歴史的建造物は、各地に引き取られていった。

これら大磯の別邸群はあくまで別邸にすぎず、保養目的で使われていた。そのため、所有者の入れ替わりは激しい。冒頭で触れた吉田茂は1945年の終戦時より本邸を大磯に定めたが、実際には住まいを転々とし、大磯に腰を据えるのは国会議員を引退した後だった。

吉田は大磯の豪華な邸宅を迎賓館として捉え、民間外交を実践していく。これは当時の東京に来日した賓客をもてなす施設がなかったことが理由だった。吉田邸には皇太子(現・上皇)夫妻のほか、海外からも首脳級の要人が訪問している。また、没後の1979年にも、大平正芳首相とアメリカのカーター大統領が会談する場として使用されている。

吉田茂邸
旧吉田茂邸は2009年に火災で焼失。一部は再建されて2017年から一般公開されている(筆者撮影)

吉田の没後、邸宅はプリンスホテルが維持費を負担していた。正確な金額は公表されていないが、一説には年間2億円ともいわれる。それを20年以上にわたって負担し、吉田邸を管理・保存してきた。

プリンスホテルが維持費を負担した明確な理由ははっきりしないが、吉田邸の目と鼻の先には1953年に大磯ホテル(現・大磯プリンスホテル)が竣工し、1957年には各種のプールが完成した。これが大磯ロングビーチとなり、大磯の海浜リゾート新時代を牽引していく。

「湘南電車」登場で輸送力拡大

海浜リゾートとして体裁を整えていった大磯だったが、鉄道の近代化は後れを取っていた。東海道本線は1925年に国府津駅までが電化され、電気機関車が運行を開始。それでも電車は運転されず、沿線自治体は電車運転を要望した。しかし、鉄道当局は重い腰をあげなかった。

1933年、沿線自治体によって省線電化期成同盟会が発足。1934年には丹那トンネルの完成により東海道本線は国府津駅―沼津駅間が現在のルートとなり、同時に沼津駅までが電化された。戦後の1950年からは、湘南電車と通称された80系電車の運行が始まった。

湘南電車は最大で郵便荷物車を含めて16両編成で運行されるなど、輸送力は飛躍的に向上した。さらに、機関車が牽引する客車列車から電車での運行に切り替えられたことでダイヤの柔軟性が増し、夏季限定で大磯駅を始発とする電車や大磯駅止まりの電車も運転されるようになった。

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