大磯、「海水浴」の一般化と鉄道駅開業の深い関係 山県有朋や吉田茂が邸宅を構えた海岸の別荘地
この広報戦略もさることながら、同時期に東海道本線の駅が開設されたことも海水浴場・大磯の人気を高めた。同線は長らく線路が横浜駅で止まっていたが、国府津駅までの延伸が決定。大磯は素通りされる予定だったが、松本は鉄道が地域振興に大きな力を発揮すると理解していたこともあり、工事責任者の一人であった原口要に駅の開設を掛け合う。
大磯は江戸時代まで宿場町としてにぎわっていたが、明治以降は急速に廃れていた。その危機感から松本は駅開設を働きかけたわけだが、逆に原口は廃れていることを理由に要請を拒否した。諦め切れない松本は、働きかける先を伊藤博文へと切り替えた。これが奏功し、大磯駅は開設された。
潮湯治は長期滞在して療養することが第1の目的だが、それは富裕層のみに許されるライフスタイルだった。鉄道が開業すれば、日帰りや1泊程度の短期滞在も可能になる。つまり、庶民も気軽に潮湯治による療養が可能になる。それが鉄道によって身近になるとともに、療養目的から「海水浴」という行為に変化していった。明治20年前後まで海水浴は「うみみずよく」と読み、まだレジャーの域には達していなかった。
医療界の大物も別邸構え「保養の地」に
松本は大磯に医院と旅館を兼ねた祷龍館をオープンする。祷龍館の建設には、日本資本主義の父と称される渋沢栄一、安田財閥の創始者・安田善次郎、横浜の生糸貿易商で巨万の富を築いた原善三郎、幕臣ながらも明治新政府でも重用された榎本武揚などが資金を提供した。また、松本は軍医の経験を活かし、橋本左内の弟で陸軍軍医を務めた橋本綱常と海軍軍医だった高木兼寛に声をかけ、大磯に別邸を構えさせた。
橋本は博愛社(現・日本赤十字社)の初代病院長を、高木は東京慈恵医院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)の初代院長を務めた人物だ。そんな医療界トップの2人が別邸を構えたのだから、松本が目指していた「医療としての海水浴」は説得力を増し、大磯は療養・保養の地というイメージを強めた。これが、さらに大磯人気を押し上げていく。
現在の大磯は主に夏が書き入れ時だが、明治末期は季節に関係なく療養・保養に訪れる人が多かった。鉄道当局は、年末年始にかけて新橋駅発着で鎌倉・国府津駅間の往復切符を販売。これらの切符を使って大磯に足を運ぶ避寒客は多く、旅館も夏季・冬季どちらも盛況だった。
そして、富裕層による別邸も増えていく。政治家で大磯に早くから別邸を構えたのは、松本と交流が深かった山県有朋だ。庭園マニアでもある山県は全国各地に別邸を所有し、そこに美しい庭園をつくった。大磯の山県邸は小淘庵と名付けられ、庭からは白砂青松の美しい海岸が見渡せたという。
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