大磯、「海水浴」の一般化と鉄道駅開業の深い関係 山県有朋や吉田茂が邸宅を構えた海岸の別荘地

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移住は山県よりも後だったが、伊藤博文は大磯を別荘地として有名にした政治家の代表格といえる。伊藤は大日本帝国憲法を起草した夏島(現・横須賀市)から小田原へと別邸を移し、その別邸を滄浪閣と命名。小田原を安住の地と考えていた。

それほど小田原を気に入っていた伊藤だったが、1896年に大磯へと転居。小田原の別邸と同じく大磯の別邸も滄浪閣と名付けた。大磯への転居にあたっては本人が役場へと足を運び、窓口で大磯の発展に力を惜しまないことを伝えたという。そうしたエピソードからも、伊藤が大磯を気に入っていたことがうかがえる。

滄浪閣
伊藤博文の別邸だった滄浪閣は2022年7月時点で改修工事中だ(筆者撮影)

伊藤は滄浪閣のほかにも、東海道本線を挟んだ山側に別邸を所有していた。こちらは「山の別荘」と呼ばれる。伊藤の没後に養継嗣だった博邦は滄浪閣や山の別荘を受け継いだが、1921年に伊藤家は東京へ転居。滄浪閣は李王家が所有し、戦後はGHQが接収した。その後、政治家の楢橋渡が一時的に所有。さらに所有権は西武へと移り、大磯プリンスホテルの別館という位置付けでレストランとして使用された。

そのほか1897年には大隈重信が、1901年には加藤高明が相次いで別荘を建設し、西園寺公望、寺内正毅、原敬といった首相を務めた政治家たちもこぞって別邸を構えた。これほど大物政治家たちが別邸を大磯に構えた理由は、やはり鉄道の開業により東京との行き来が容易になったことが理由として挙げられる。

財閥の当主も注目

大磯の快適性、東京までの適度な距離感に着目したのは政治家だけではなかった。財界人も多く別邸を構えている。三井財閥の三井高棟や三菱財閥の岩崎弥之助、浅野財閥の浅野総一郎といった財閥当主たちが集結。浅野邸は、後に安田財閥の安田善次郎邸となっている。当主ではないが、三井財閥の実質的な責任者で戦前期には首相候補として名前が浮上した池田成彬なども大磯を気に入って別邸を構えた。池田の影響力は戦後も絶大で、吉田茂も池田の元に政治に関する相談に来ていたという。

こうした財界人の中でも特筆すべきは三井一族で、惣領家の当主だった高棟のほか高保・守之助・養之助など一族の別邸も大磯に点在していた。

その中でも高棟は別格で、1895年に城山荘と呼ばれる別邸を建設。それだけではなく、山県が引き払った土地も取得している。城山荘は関東大震災で全壊したが、再建にあたっては木造耐震建築に造詣が深い久米権九郎に設計を依頼。本館・新館のほか、作陶する窯場、作画する画室、神社などを有する広大な別邸となった。1937年には、国宝指定された茶室「如庵」を東京・芝区(現・港区)の今井本邸から城山荘へと移築している。

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