「心は売っても魂は売らない」ファンキーな土着 「逃れられない病」を土臭く泥臭く生きていく
現代社会は「何のために測るのか」という問いより先に、「とりあえず数値化しておく」という測定執着に罹患している状態です。そのせいで「数値化できるもの」のほうが「数値化できないもの」よりも優先され、いつのまにか「数値化できないもの」は存在しないことにされてしまう。このような傾向は、土着を認めたうえで生きていく本来の人類的なものではなく、土着を見ないふりをする近代的な生き方だといえます。近代的な生き方とは、本来は数値化できない土着の部分を人間の力によって征服し、科学的な力によって世界をコントロールできるという信仰に基づいた生き方です。
土着は「ファンキー」である
そのようなわけで、ぼくの思う土着はindigenousともnativeともvenacularとも異なりました。ではどんな訳語が適切なのかというと、そこで思い浮かんだのがfunkyという言葉です。でも辞書でファンキーを引くと、あまり良い意味が載っていません。もともとは「おじけづいた」とか「臆病な」といった意味を持っていたそうですが、ぼくにとってのファンキーはそういう意味ではありません。ぼくがファンキーという言葉でイメージするものの源流は、どうやら1960年代のジャズの流行に行き着くようです。映画評論家でジャズ評論家でもあった植草甚一さんは以下のように述べています。
(植草甚一『ファンキー・ジャズの勉強』晶文社、1977年、27~28頁)
植草さんは黒人独特の感じ方や言葉の使い方も踏まえて、ファンキーがジャズ用語として定着していったことを説明しています。このようにブルージーでソウルフルでアーシーという意味を含むファンキーは、「逃れられない病」である土着の訳語にピッタリだと思いました。そして土着というとどうしても静的なイメージがありますが、「逃れられない病」と折り合いをつけて生きていくことは「2つの原理を行ったり来たり」するという意味で、動的なイメージも含んでいます。この点も土着に対してファンキーという訳語をあてた理由です。
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