30年ぶり「マツダがレース」に帰ってきた深い訳 次世代を見据えたMAZDA SPIRIT RACINGの活動
当初、ST-5クラスへの参戦は第3戦SUGOからを予定していたが、富士24時間でのMAZDA2 Bio conceptの修繕などさまざまな要因から、ST-5クラスへの参戦開始は「モビリティリゾートもてぎ」で行われる「第5戦 5Hours Race」に延期された。
こうして始まった、MAZDA SPIRIT RACING。チームは、チーム代表/チーム監督/エンジニアをマツダ本社の幹部や社員が務め、マツダ車での実績が豊富なTeam NOPROと、マツダ本社地元の販売店である広島マツダのレーシング部門「HM RACERS」などの社外のレース関係者がサポートする体制だ。
ドライバーは、チーム代表の前田氏のほか、マツダの車両実験を行う社員や社外のエキスパートドライバーが務める。こうした混成チームであることが、実にマツダらしい。
だが、基本的には本社直轄のいわゆるワークスチーム活動であるといえる。なお、ST-5クラスのロードスターについては「ロードスターに関連するレース実績があるドライバーも含め、チーム体制を調整中」という。
マツダとモータースポーツの関係
さて、マツダのモータースポーツ史について、6年の月日を経て完成した『マツダ百年史 正史編・図鑑編』を紐解けば、これまでマツダ本社がレース活動全体を指揮するワークスチーム活動の期間が、意外と短かったことがわかる。
1964年の第2回日本グランプリに「キャロル360」で参戦したのがマツダモータースポーツの始まりで、1970年までの東南アジアやヨーロッパでのレース参戦が、ワークスチーム活動だった。
オイルショックの影響で日系メーカー各社がワークスチーム活動から撤退した1970年代は、ツーリングカーレースでの「サバンナRX-3」、富士グランチャンピオンシリーズでの「マーチ76S」など、マツダが有力チームに技術支援する形で国内レースを戦う。
これらは、マツダがドイツのNSU社とバンケル社と技術提携したロータリーエンジンの周知活動が主な目的だった。
1970年代も後半となると、マツダの経営再建が軌道に乗ったことでモータースポーツ参戦の中期計画を立てる。「第1次3カ年計画」では、「RX-7」によるアメリカ・デイトナ24時間レースを販売店のマツダオート東京チームと連携して、見事にクラス“ワンツーフィニッシュ”を成し遂げた。
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