16代目クラウン、67年の歴史経て編み出した価値 純国産車である歴代クラウン歴史的の位置づけ

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クラウンの歴史と、その開発に携わった主査の想いを語る豊田章男社長(東洋経済オンライン編集部撮影)
クラウンの歴史と、その開発に携わった主査の想いを語る豊田章男社長(東洋経済オンライン編集部撮影)

海外の自動車メーカーとの提携を通じ、ノックダウン(現地組み立て)生産によって日本で販売されたほかの国産車メーカーの乗用車に比べ、日本の交通事情に即したはじめての乗用車として、初代クラウンは存在したともいえる。クラウン誕生は、たとえそれを自ら手にできなくても、町を走る姿を見ることで多くの日本人の誇りにもなった。

初代~2代目で主査(開発責任者)を務めたのが中村健也である。

初代「トヨペット・クラウン」を担当した主査がクラウンに込めた想い(東洋経済オンライン編集部撮影)
初代「トヨペット・クラウン」を担当した主査がクラウンに込めた想い(東洋経済オンライン編集部撮影)

よいと思うことは、たとえ周囲が反対しても貫く姿勢で採用されたひとつが、初代クラウンの観音開きドアであった。安全上の課題が懸念されたが、文金高島田の花嫁も乗りやすいようにとこだわったためと語り継がれる。

豊田章男社長が語ったクラウンと主査の歴史

新型クラウン発表会で、豊田章男社長は歴代クラウンの話からはじめた。

主査のもとで一丸となって開発する主査制度や、顧客の使い勝手をつねに視野に入れながら開発する姿勢は、初代クラウンから受け継がれたトヨタ車すべてに通じる特徴となっていく。

1967年発売の3代目クラウン(撮影:尾形文繁)
1967年発売の3代目クラウン(撮影:尾形文繁)

3代目クラウンは、国内の経済成長を受け、それまで乗用車を所有するのは法人が中心だったが、個人が手にするのにふさわしい車体色として、「白いクラウン」の宣伝文句を使った。この表現は、今日まで人々の意識にのぼるトヨタ車の印象といえる。トヨタはこれを進化させ、1980年代にスーパーホワイトと名づけた、輝くような白い車体をブランド化していった。

1983年発売の7代目クラウン(撮影:尾形文繁)
1983年発売の7代目クラウン(撮影:尾形文繁)

7代目では、「いつかはクラウン」というメッセージで憧れをもたらした。最上級車種の位置づけに変わりはなかったが、大衆車のパブリカ、小型車のカローラやコロナ、そしてマークⅡを経て、最終的にクラウンに乗りたいとの憧れを人々に与え、存在感をいっそう高めたのである。それはトヨタの販売店と消費者が生涯を通じて付き合う、販売戦略における効果ももたらしたのではないか。

トヨタは、1982年に、開発と製造を行うトヨタ自工と、販売を担ってきたトヨタ自販を合併し、トヨタ自動車として事業を進めることにした。1983年にフルモデルチェンジした7代目クラウンは、その時代に重なる。続く8代目で、歴代最高の販売台数を達成したと、豊田章男社長は振り返るのである。

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