実家じまいに1800万円使った松本明子さんの痛恨 リフォーム後に売ろうとしたら「マイナス査定」
そうして、私は実家を相続で受け取りました。父は、高松の実家は2000万円ぐらいの価値があると考え、兄には実家の価値の半分ぐらいの金額を、保険を解約するなどして先に渡していました。実際には、実家にそこまでの価値はなかったことが後でわかるのですが、父がそこまで考えていてくれたことはとても嬉しかったですね。
ただ、いま振り返ると「実家を頼む」とはどのくらいの期間なのか、もっと具体的に聞いておけばよかった。私が一生涯、実家を管理すべきなのか。身体が動く70代ぐらいまでなのか、50代で手放していいという意味だったのか――。
――松本さんはバラエティ番組で、家族仲がいいとお話されていました。良好な家族関係も、実家じまいに時間がかかったことに影響しているでしょうか。
たしかに、父と母を亡くした頃は相当落ち込んで、実家じまいをするなど考える余裕がなく、しばらくおいておいた面はあります。
私は兄が10歳年上で、両親が40歳近くになって生まれた子どもで、溺愛されて育てられました。父とは、私が結婚後も一緒にお風呂へ入るほど仲良しでしたね。
私が幼稚園時代は父と母、私の3人で夜な夜なバーやスナックへ繰り出していた思い出も。父はお店に行くと「明子、歌え、歌え」と言って私に歌わせる。するとママさんやホステスさんが褒めてくれて、10円や20円を私にくれる。その場で私は、カルピスをボトルキープする子どもでしたね(笑)。
母は若い頃、芸事を職業にしたいと思っていた人で、私が歌う姿に目を細めていました。いま思えば、酒場で歌う体験が私の芸能界へ入りたい! と思う原点だったのかもしれません。
親を2人とも亡くした喪失感は想像以上
ところが、「上京して歌手デビューしたい」と伝えると、父は大反対。「自分の目が届く範囲で歌っているならいいけれど、実家を離れて上京するなんて絶対にダメだ」と。甘々なところと厳しいところ、両極端を持っている父でした。私の夢を応援してくれたのが、母です。「明子のやりたいことをやらせてやって」と、援護射撃してくれたんです。母が父を説得してくれなければ、私は上京できなかったかもしれません。
――バラエティ番組『DAISUKI!』(1991年4月14日から2000年3月26日まで放送。日本テレビ)では、松本さんが共演のお2人に毎回、腕を絡ませる姿が印象的でした。
あの番組では、秀ちゃん(中山秀征さん)や直ちゃん(飯島直子さん)に、ずっとくっついていた記憶があります。末っ子ですから、甘えん坊なんです。
父を亡くしたときももちろんつらかったですが、41歳(2007年)のときに母を亡くしたときは、心身ともに大きく負担がかかりました。同性だからか、人生の道しるべを失ってしまった感覚もあり、「この先、どうすればいいんだろう」と、心が路頭に迷ってしまったというか。
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