第一次世界大戦の遠因もロシアの南下政策だった 「スラブ民族の保護者」を自称するロシアのエゴ

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キリストの墓の上に建てられたと言い伝えられているエルサレムの聖墳墓(せいふんぼ)教会の管理権は、フランス革命の混乱期にオスマン朝に奪い取られてしまいました。それに対して、フランス第二帝政期のナポレオン三世がオスマン朝政府と交渉し、この管理権を東方教会から取り戻します(1852)。

しかしナポレオン三世の行為に激怒したのがロシア皇帝・ニコライ一世でした。彼はオスマン朝の領国に住む東方教会の信徒を保護するという大義名分を立てて、オスマン朝に宣戦布告したのです(1853)。

信徒保護が表の看板、裏の本音は黒海を含めオスマン朝の領土を更に切り取ることでした。そのことを熟知していた連合王国とフランスは、ロシアに対して宣戦を布告(1853)、ここにクリミア戦争が勃発しました。

ロシアは産業革命に力負け

クリミア戦争は近代戦の幕開けともいわれた戦争でした。また、この戦争を契機に国際的医療組織である赤十字が誕生するなど、多くのエピソードを残しました。戦いはロシア艦隊の基地となっていたクリミア半島の軍港、セヴァストポリにある要塞の攻防に帰趨がかかっていましたが、要塞は陥落し、ロシアは敗れました。

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敗戦の原因は極言すれば、産業革命が終わっていた連合王国とフランスに対し、いまだにロシアは前近代的な産業構造から抜け出せなかったことでした。連合王国とフランスは、セヴァストポリ要塞を落とすために港から要塞まで鉄道を敷設し、大量の兵器と軍団を次々に送り込んだのです。この物量戦の前に、難攻不落を誇ったセヴァストポリ要塞も、ひとたまりもなく陥落したのでした。クリミア戦争のロシアは、いってみれば産業革命に力負けした、ともいえます。

そして、1855年にはニコライ一世が死去し、次の皇帝アレクサンドル二世が登極して、クリミア戦争は終結。1856年にロシアとオスマン朝の間でパリ条約が締結されました。オスマン朝の領土保全、黒海の中立化と軍艦航行の禁止、および要塞構築の禁止などが定められ、「ロシアの黒海の独占は許さない、オスマン朝の領土切り取りは阻止する」という西欧列強の主張が貫徹されました。

クリミア戦争の敗北により、ロシアは南下政策をいったんは停止しましたが、その後も幾度かの南下が行われ、現在のウクライナ侵攻に至っています。

出口 治明 立命館アジア太平洋大学(APU)学長

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でぐち はるあき / Haruaki Deguchi

1948年、三重県生まれ。京都大学法学部卒業後、日本生命保険相互会社入社。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て2005年に同社を退職。2008年にライフネット生命を開業。2017年に代表取締役会長を退任後、2018年1月より現職。『生命保険入門 新版』(岩波書店)、『人類5000年史Ⅰ』(ちくま新書)、『「全世界史」講義Ⅰ、Ⅱ』(新潮社)、『仕事に効く教養としての「世界史」Ⅰ、Ⅱ』(祥伝社)、『本の「使い方」1万冊を血肉にした方法』(角川oneテーマ)、『教養は児童書で学べ』(光文社新書)、『ゼロから学ぶ「日本史」講義Ⅰ』(文藝春秋)など著書多数。

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