第一次世界大戦の遠因もロシアの南下政策だった 「スラブ民族の保護者」を自称するロシアのエゴ

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しかし、1453年に東ローマ帝国はオスマン朝によって滅ぼされます。このとき最後のローマ皇帝の姪である女性が、モスクワ大公国(後のロシア)のイヴァン三世と結婚しました。イヴァン三世はこの結婚によって、ローマ皇帝を後継する者は自分であると公言し、みずからをツァーリ(ロシア語で皇帝)と呼び、モスクワを「第三のローマ」と称しました。

さらにイヴァン三世は、この結婚を機会に東方教会の大司教の座をモスクワに招来しました。そしてロシアやバルカン半島に住む東方教会の信者を守る者は、ロシアであると主張し始め、バルカン半島に首を突っ込んでいくようになります。なお「ロシア」が正式に国家の名称となるのは、ピョートル一世が18世紀の初めにロシア帝国の誕生を宣言したときからです(それまではモスクワ大公国)。

ギリシャの独立戦争とふたつのロンドン会議

約400年間、オスマン朝の支配下に置かれていたギリシャは、フランス革命の思想的影響を受けて、弱体化が目立ち始めたオスマン朝に対して独立戦争を開始しました(1821年)。このときロシアは、ギリシャが東方教会の地であることを理由に、独立運動の扇動と応援を続けていました。

一方でヨーロッパ各国は、古代文明発祥の地の一つであるギリシャがイスラム圏から独立することを熱狂的に支持し、多くの芸術家や市民が義勇兵として参加しました。連合王国(のちの大英帝国)とフランスも、ただちに介入します。ロシアにギリシャ独立戦争を、オスマン朝を侵略する足掛かりとさせないためでした。そして、連合王国、フランス、ロシアの連合軍は、ペロポネソス半島南端、ナヴァリノの海戦でオスマン朝に勝利します(1827年)。

ギリシャの独立は、それから2年後にトルコのギリシャ国境に近い都市アドリアノープル(現在のエディルネ)で、ロシアとオスマン朝が交した条約によって承認されました(1829)。さらに1830年から開催されたロンドン会議で、独立が正式に認められました(1832)。ただしナポレオン後のウィーン体制のイデオロギーが優先され、共和国は認められず、政治的中立国であったドイツのバイエルン王国の王子を国王とする、新しい王国として独立が承認されました。

なおロンドン会議は連合王国、フランス、ロシアが中心となって開催されました。主要な議題はギリシャの独立問題でしたが、それに加えてベルギーの独立問題も協議されました。

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