「ウィル・スミス事件」日本の議論に対する違和感 スミスが黒人のイメージを悪化させていると?

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しかし、反撃しなかったクリス・ロックは黒人の子どもたちのお手本として、プロ意識の砦として、あるいは緊張した状況をエスカレートさせないための手本として持ち上げられただろうか。いいや。

アメリカの警察にはクリス・ロックを見習って、暴行されても耐えられるような忍耐力を身につけさせるべきだ。黒人が警官を平手打ちして。お返しに発砲された場合、誰もが正当な発砲だったと言うだろう。

これで、この考え方の欠点がわかるだろうか。

つまり、平手打ちをする前のウィル・スミスの素晴らしいイメージは、必ずしも黒人のイメージにプラスに働いたり、いい影響を与えたりするものではなかったが、クリス・ロックを平手打ちしたことは、すでに歪んだ圧倒的な黒人のマイナスイメージに加担する可能性があるということである。

また、平手打ち後のクリス・ロックの行動は拍手に値するものであり、もしRespectability Politicsが公平なものであれば、すべての黒人に賞賛の声が上がるだろうが、結局、日本でもアメリカでも黒人の受け止め方には何の影響もないだろう。

すべての人種を代表しているという「恐怖」

この基準では、黒人やその他の疎外された人々は、決して勝つことが出来ない。

日本に来たばかりの頃、採用してくれた英会話学校のオリエンテーションで、「日本人は特に外国人に対しては外見を重視するので、どこに行くにも身なりを整えるのがベストです」と言われたことを覚えている。

日本人は、外国人がスーツやネクタイをしていると好感を持つ。これは、日本人の尊敬と受容の概念に訴え、犯罪者や不法滞在者と間違われる可能性を減らすことになる(不法滞在者や犯罪者がスーツとネクタイを拒否するのは、彼らが一様に愚かであるか、ドンキホーテででさえシャツとネクタイを買う余裕がない、ということか)。

日本でどこで何をするにも、自分が自分の人種を代表しているという負担は大きすぎるだけでなく、おそろしいほどに非人道的である。自分が何かその社会の基準に合わないことをしただけで、私と同じ肌をした人が、個人としてではなく、肌の色だけで気の毒にもその影響を受けるなんて。

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