「ウィル・スミス事件」日本の議論に対する違和感 スミスが黒人のイメージを悪化させていると?
この「スミス/ロック事件」でもう1つ問題なのが、黒人は全体のイメージ向上のためにつねに模範的な言動をしなければいけない、というナラティブで、スミスの暴力は黒人の暴力的なイメージを払拭するための努力を無駄にした、という見方だ。「たった1回のスミスの平手打ちが黒人のイメージを50年前のものに戻した!」というような。
この種のあらすじを表す用語がある。「Respectability Politics(直訳すれば、尊敬される政治という意)」というもので、少数派の人間が何か問題行動を起こすたびに、多数派がこれをその集団全体について何か問題があることを示している、と判断するものだ。
ネガティブな行動だけが注目される
ウィル・スミスが何か素晴らしいことをすれば、人々は幸せな気分になり、彼の映画を見るために働いて得たお金を使うことも厭わないのだが、こうした感情や行動はすべての黒人に対するものではない(中には「スミスは黒人のイメージ向上のために素晴らしいことをした!という人がいるかもしれないが、これはこれでひどい人種差別だ)。ウィル・スミス「個人」に対するものであり、ここでは彼は黒人全員を代表するものではない。
ところが、ウィル・スミスが多数派の認めないことをしたり、少数派に対して付けがちなあらすじに合う行動(暴力など)を見せた途端、すべてが変わってしまう。
彼はもはや、ウィル・スミスという個人ではなく、幸福の担い手でもなく、何十億ドルものお金と何百人ものハリウッド関係者らの懐を支え、何百万人もの日本人、そして地球上のあらゆる人種の人々に笑顔を与えてきた男ではない。今や彼はウィル・スミス、「怒れる暴力的黒人」であり、黒人が否定的なイメージを付与されるに値する典型的な例となった。
一方、クリス・ロックは、世界中の何百万人もの人が見ている前で顔をひっぱたかれたが、暴力的な報復をしたのだろうか。いいや。あるいはピストルを取り出して撃ち始めたのだろうか。いや、可能な限り感情を抑えて(この状況下では顕著だが)ショーを続けたのだ。それがプロの仕事だ。アカデミー賞の授賞式を可能な限り救ってくれた。
では、「黒人」はこれを指針に評価されたのだろうか。いいや。クリス・ロックだけが評価された(が、あまり評価されていない)。多くの人はロックが叩かれるのを見たように、スミスが叩くのを見た。
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