人にスルーされる言葉と心に残る言葉の決定的差 「論理的に説明する能力」以外に重要な事がある

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わたしはこれまで、繰り返し心のなかで問いかけてきた。雄弁に語る能力や、弁論術に対する人々の熱心さは、はたして人間と社会に、利益と害悪のどちらを多くもたらしたのだろうか、と。

確かに、この国がこれまでに経験した災難や、昔の国々を襲った危機を思い返してみると、その大部分は、優れた弁舌の能力を持った者によって引き起こされていることがわかる。

ところが、我々が記憶していないほど昔の出来事について歴史書で調べてみると、さまざまな都市が作られ、数々の戦争が終結し、固い同盟関係や美しい友情が築かれたのは、理性の働きだけでなく雄弁の力のおかげでもあったことに気づかされる。

弁論術というものの功罪について長年考えてきた結果、わたしはある1つの結論に至った。

それは、雄弁に語られることのない知性は社会の役に立たず、知性を伴わない雄弁さは、社会に害悪をもたらすことはあっても、けっして有益にはなり得ないということである。

したがって、弁論の技術を磨くことに心血を注ぐあまり、知性や道徳の追求という最も崇高で意義のある営みをないがしろにする者は、自分自身にとって無益なだけでなく、国をおびやかす危険な存在になりかねない。

その反対に、国に害悪をもたらすのではなく、国に貢献するために弁論の力という武器を身につける者は、自分自身と社会の両方にとって、誠実で頼りがいのある善き市民になるだろう。[『着想論』1巻1節]

実感していない感情には、聞き手を誘導できない

キケロの著書『弁論家について』の1節のなかで、登場人物の1人であるアントニウスが、感情を使った説得を上手におこなうには、聴衆の心にかき立てようとしている感情を話し手自身が感じていなくてはならないと断言している。そして、激しく感情的な弁論の例として知られる訴訟で、自分がどのように説得をおこなったのかを語っている。

マニウス・アクィリウスの市民権を守るための弁論で、わたしが結びの言葉を述べている最中に、本当は大して哀れみの気持ちなど感じていなかったのだろう、とは思わないでほしい。

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