人にスルーされる言葉と心に残る言葉の決定的差 「論理的に説明する能力」以外に重要な事がある
訴訟で扱う問題というのは、人や状況の数だけ無数に存在するわけではなく、ある程度の傾向や種類に分けることができる。
しかもその数は限られているどころか、ごくわずかしかない。したがって、弁論をきわめようとする者は、訴訟の種類に応じた根拠の示し方を習得しなくてはならないわけだが、その根拠が適切で、説得力のあるものかどうかは、聞き手の共通認識、つまり、訴訟の内容とそれについての世間一般的な考えによって決まる。
自然に浮かんできた言葉が十分に印象的
訴訟の種類と、それに関わる陪審員や聴衆の共通認識をきちんとおさえていれば、おのずと語るべき言葉が浮かんでくる。しかも、そのように自然に浮かんできた言葉というのは、それだけで十分に印象的な表現だろう。
わたしの考えを言わせてもらえば(それ以外は述べようがないのだが)、法廷に立つときにはあらゆる訴訟の種類の扱い方が頭に入っているべきであり、訴訟を引き受けてから、自分の主張の根拠となる共通認識を探しているようではいけない。
論理的な証明というのは、深く考えなくても、経験と訓練さえ積めば誰でもそれなりに扱えるようになる。
とはいえ、弁論を考えるときは常に、発想の源である共通認識に意識を向けておかなくてはならない。すでに述べたように、どんな弁論であろうとも、必要な考えや言葉はすべてそこから見つけ出せる。
共通認識というものについて一言で言うなら(それが学んだ知識であれ、観察から得た考えであれ、経験則であれ)、自分が狩りをする場所を熟知した上で獲物を追いかけよ、ということに尽きる。
その場所全体に思考の網を張りめぐらせ、実践で腕を磨きさえすれば、捕まえることのできない獲物はない。その訴訟を戦うために必要なものはすべて自分のほうへと飛び込んできて、手につかむことができる。[『弁論家について』2巻145─147節]
前回:説得がヘタな人と難なく納得させる人の決定的差(4月12日配信)
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