日産「セフィーロ」が獲った“幻”の特賞 20年前に起きた「事件」の真相を明かそう

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年末になると自動車業界ではカー・オブ・ザ・イヤー(COTY)の話題で盛り上がる。ちょうど20年前、一般紙などの経済記者によって選ばれた「自工会クラブ版カー・オブ・ ザ・イヤー」という賞があった。自工会クラブとは、日本自動車工業会(自工会)が開設していた記者クラブ(現在は自動車産業記者会)だ。このことは限られた関係者以外は知らないはずだったが、『週刊新潮』にスッパ抜かれたために図らずも表沙汰になってしまっ た。事務局だった筆者が自動車担当を外れたため、結果的に2回しか経験しなかった「自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤー」の顛末を記録しておきたい。第1回(知られざる、もう一つのカー・オブ・ザ・イヤー)に続く第2回。
日産が1994年に発売した2代目「セフィーロ」。今はなきモデルだ(写真は日産自動車プレスルームより)

自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤーの結果を公表する自工会クラブの納会は、1994年12月末に開催され、栄えある第1回受賞車は日産自動車の中型乗用車「セフィーロ」が選ばれた。

三菱自動車が1994年の日本カー・オブ・ザ・イヤーを獲得したスポーツクーペ「FTO」(撮影:吉野 純治)

2位はホンダのミニバン「オデッセイ」、3位も日産の小型乗用車「サニー」だった。残念ながら、その年の日本カー・オブ・ザ・イヤー(COTY)に選ばれた三菱自動車のスポーツクーペ「FTO」は10位以内にも入らなかった。20年前には「選考結果を対外的に公表しない」としていたが、車名にモザイクを入れたまま当時の自動車業界の状況を説明するわけにもいかない。関係各位にはご容赦願いたい。

1994年当時の自動車業界は、円高不況の真っ只中にいた。背景には日米自動車摩擦の激化があった。頼みの国内景気は、1990年のバブル経済崩壊で不良債権問題が表面化し、政府の景気対策と日銀の金融緩和で支えられている状況だった。四輪車新車販売台数はピークだった90年の年間777万台から94年は同654万台まで減少。円高による輸出の減少も重なって、1992年にはいすゞ自動車が乗用車生産から撤退したほか、日産自動車が座間車両工場(神奈川県)の閉鎖を決めるなど、厳しいリストラを余儀なくされていた。

日産は厳しい経営状態

日産は1980年代前半の激しい労使対立の影響などもあって、かつてはトヨタ自動車と並んでいた国内シェアがジリジリと下がり続け、挽回できない状況が続いていた。1988年には5代目シルビアが人気を集め、初代セフィーロも歌手の井上陽水さんの「お元気ですか」というテレビCMの効果で話題となったが、昭和天皇崩御と重なってCMを自粛。1992年には2代目マーチでコンパクトカーに革命を起こしたと言われるものの、反転攻勢には至らなかった。

第1回の自工会版カー・オブ・ザ・イヤーに選ばれた日産「セフィーロ」は、6年ぶりにフルモデルチェンジした2代目。「技術の日産」として力を注いで新開発した「VQエンジン」と呼ばれるV型6気筒エンジンを最初に搭載した戦略車だった。日産では座間車両工場の閉鎖を決める一方で、VQエンジン専用のいわき工場(福島県いわき市)を建設。バブル崩壊で市場規模が急速に縮小したスポーツクーペに比べて、国内自動車市場に与える影響が大きいことは明らかだった。

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