「なだ万」はいかにして有名になったのか 日本料理の老舗は大企業に身を寄せた(中)

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料理の鉄人のくだりは、なだ万の『百八十年史』でも扱いが大きい。フジテレビのスタジオで料理をする中村孝明(写真中央)

1996年12月31日に放映された道場とのおせち対決。中村は『料理の鉄人大全』のインタビューの中で、「道場六三郎対中村孝明ではなかったんですよね。道場六三郎対『なだ万』の戦いだった」と述べている。結局、この戦いは中村に軍配が上がった。1996年3月に新鉄人としてデビューしてから1998年2月の引退試合まで37戦し、24勝11敗1分(1ノーゲーム)だった。

楠本社長(当時は会長)は、『日経レストラン』(1998年1月21号)のインタビューで料理の鉄人について、「おつにすまして『老舗でございます』という時代ではないですから。老舗として守っていくところは守るし、大衆路線は大衆路線でいかなければいけない。全国的に知名度が上がることは良いこと」と語っている。

新業態で中食市場へ進出

1995年の初出店から37店まで拡大した「なだ万厨房」(写真はなだ万ホームページより)

中村が料理の鉄人としてデビューする前年、1995年に参入した中食市場での事業展開も、なだ万の大きな節目といえる。これは大衆市場への浸透とブランドの戦略的展開として始めたもの。百貨店内で弁当・惣菜を販売する「なだ万厨房」(当初は「なだ万ショップ」)は日本橋三越本店内に1号店を出店した。

未経験の取り組みには苦労もあったようだ。調理人は高価な懐石料理や松花堂弁当は得意だが、1000円台のお弁当の作り方が分からない。関係者によれば駅弁を買い込んで研究を重ねたという話もある。それが現在では37店まで店舗を拡大している。

なだ万厨房の展開について、『日経レストラン』(1998年1月7日号)のインタビューで楠本は「灘萬というと、今までホテルニューオータニ内の『山茶花荘』や、各ホテル内の店を見て『高そう』というイメージがあったものが、『なだ万厨房』で1個300円とか600円という惣菜を見て、親しみを持ってくれたこともあると思います」と語っている。

取締役本部長時代、楠本は社内で「老舗はいつも新しい」というキャッチフレーズを掲げた。その後なだ万では、レストランのほかにさまざまな事業展開を進めてきた。直近の売上高は150億円で黒字。一見すると順調だが、なぜかアサヒビールに身を寄せた。決断の背景には何があったのか。社長取材を申し込んだが、それは叶わなかった。(=一部敬称略=)

日本料理の老舗は大企業に身を寄せた(下)は1月14日掲載予定です

井下 健悟 東洋経済 記者

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いのした けんご / Kengo Inoshita

食品、自動車、通信、電力、金融業界の業界担当、東洋経済オンライン編集部、週刊東洋経済編集部などを経て、2023年4月より東洋経済オンライン編集長。

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