なだ万、アサヒビールとの浅からぬ”縁” 日本料理の老舗は大企業に身を寄せた(上)
身を寄せる先はここ以外になかったのかもしれない。アサヒビールは昨年12月、創業家から過半の株式を買い取り、180年以上の歴史を誇る日本料理の老舗「なだ万」をグループ傘下に収めた。今後、役員が派遣され、代表権を持つ会長が就任する予定だ。
なだ万では「傘下に入ることで、事業基盤をより安定させ、なだ万ブランドの諸事業を一層信頼あるものとして発展させることが出来る」と説明している。一方、アサヒビールの小路明善社長は「なだ万をグループに入れ、経営責任をしっかりとって、和食文化を国内外に広げていきたい。半年、1年ではない。数年かけて最終的な判断をした」と語る。
今回の案件は、なだ万のメインバンクを通してアサヒビールに相談が持ちかけられた。財務内容は開示されていないが、なだ万によれば実質無借金で利益も出ているという。過剰な出店で経営が傾いたわけでもないのに、なぜ創業家が株式を売却を決めたのかは不明だ。ただ、歴史を振り返ると両社には浅からぬ縁がある。
「窮地をたびたび救ってくれた」
アサヒビール(当時は朝日麦酒)初代社長の山本爲三郎は、『史蹟花外楼物語 明治維新と大阪』(1964年刊)の中にある「花外の昔を偲び将来に思う」と題した追懐記でこう書いている。
「花外のお悦、お孝、灘萬のお徳、お照、富田屋のお柳、平鹿のお寿、瀧柳のお柳など、格調というか、もし女を男にする術があれば、いずれも一流の実業家と太刀打ちのできる人物であろう。(中略)大阪の花外や灘萬が、政財界の重大な舞台となったといって、不思議がるには当たらない」
「灘萬のお徳」とは三代目女将で、「お照」は四代目女将のこと。なだ万が2013年に発行した『百八十年史』の中でも、戦後のなだ万復興に大阪財界の世話役的存在だった山本氏の尽力があったことが記されている。それだけでなく、「1966年には戦前からの灘萬贔屓(ひいき)で、当社の窮地をたびたび救ってくれた山本爲三郎氏が死去している」と触れている。
過度経済力集中排除法で大日本麦酒が分割されて朝日麦酒が発足し、山本が初代社長に就いたのは戦後間もない1949年のこと。両者の接点は60年以上前からあったことになる。
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