「なだ万」はいかにして有名になったのか 日本料理の老舗は大企業に身を寄せた(中)
日本料理の老舗というと敷居が高いが、昨年のアサヒビールによる買収で話題になる前から、「なだ万」の名前を知っていた人は少なからずいたのではないだろうか。
今から100年近く前の1919年、灘萬(2004年に「なだ万」へ社名変更)の名が知れ渡った出来事がある。西園寺公望が首席全権委員となり、総勢約60名で参加したパリ講話会議に、三代目灘萬の主人である楠本萬助が随行したのだ。
これには、住友家が出入する料亭として頻繁になだ万が利用されていたことが関係している。西園寺公望の実弟は住友家15代当主の住友友純であり、友純の正伝『住友春翠』(1955年刊)によれば、萬助は西園寺公望一行の食事だけでなく、現地で各国の使節を招いて日本料理の宴を催す用意もしていった。この準備を「春翠(住友友純)が鈴木馬左也(住友三代目総理事)と計り、細かに心を廻らせて指図し調えた」という。
社員が二代目・和の鉄人に
なだ万の『百八十年史』には、萬助の随行について「たちまち世間の話題をさらい、(中略)これで灘萬と楠本萬助の名は満天下に轟くこととなった」と誇らしげに書かれている。
時を経て、なだ万の名前が知れ渡ったのはテレビ番組だった。1993年10月の放映開始から6年間続いたフジテレビの「料理の鉄人」がそれだ。和の鉄人、フレンチの鉄人、中華の鉄人が挑戦者からの指名を受け、毎週違う食材をテーマにキッチンスタジアムで戦うこの番組は高視聴率を誇った。
初代・和の鉄人である道場六三郎に腕を認められ、二代目の鉄人としてデビューしたのが、当時、なだ万の調理本部部長を務めていた中村孝明だった。『料理の鉄人大全』(2000年刊)によれば、楠本正幸会長(現在は社長)が顔見知りだった道場に話をしたことがきっかけで、フジテレビのプロデューサーがなだ万に訪れ、あっという間に中村の出演が決まった。
同書のインタビューで中村は「僕は『絶対に負けちゃいけない』ってプレッシャーばかり感じてました」と話している。オーナーシェフではなく、一社員の中村が「なだ万」の代表としてテレビに出るのだから、そうとうな重圧だったはずだ。
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