日本史上には、8人10代の女性天皇が存在する(下表)。このうち、推古(すいこ)から称徳(しょうとく)に至る6人8代は古代の女帝(じょてい)である(皇極(こうぎょく)と孝謙(こうけん)は、譲位後に再度即位している。これを重祚(ちょうそ)という)。約860年の空白期間を経て、近世に明正(めいしょう)と後桜町(ごさくらまち)が即位する。
これらの女帝の多くは、日本史の教科書に記述されることが少なく、よく知られていない。記述される場合も、女帝は本来即位すべき男帝(だんてい)が幼年の場合や、そのほかの「特別な事情」があって即位した「中継ぎ」であり、実権はなかった、という評価が根強くある。
女帝ははたして本当に中継ぎだったのだろうか。その実態をつかむために、女帝の即位が相次いだ7〜8世紀の歴史を見ていきたい。
唐・新羅との国際戦争 最高指揮官は女帝だった
7〜8世紀の日本は、白村江(はくそんこう)の役(えき)で唐(とう)・新羅(しらぎ)に敗北し、また、壬申の内乱が勃発するなど、内憂外患を経験した。それに伴い、倭国は国号を「日本」に変え、大王の称号も「天皇」へと変わる。こうして、日本型王権である天皇制を中軸に据えた律令国家が形成されていく。
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