欧米列強から中国を守ることを主張してきた明治以来のアジア主義者たちは、1937(昭和12)年7月に始まるその中国との全面戦争により、深い挫折感を味わわされた。立憲政友会の大物政治家・小川平吉は大久保利通と伊藤博文の不在を、そして右翼の巨頭である頭山満(とうやまみつる)は山県有朋の不在を嘆いた。
大久保利通は1874(明治7)年に日本の台湾出兵で険悪化した中国との関係を、自ら北京に乗り込んで打開した。台湾出兵は近代日本が領土や特殊権益の獲得を目指して対外進出を試みた最初の行動であり、明治初期における最大の対外危機であった。政府内外の強硬論者を抑え込んだ大久保の英断を陸軍卿(大臣)として支持したのが、山県有朋であった。山県は、当時の日本には中国と一戦する力がないことを、政府内部で強く主張したのである。
その11年後の85年に、政府内外の強硬論を抑え自ら天津に赴いて中国との衝突を回避したのは伊藤博文であったが、その背後にも山県がいた。
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