工作で誰もが使う「ヤマト糊」の圧倒的強さの秘密 家訓「一代一起業」が生んだイノベーション
こうして完成した「なめらかで、いい香りの腐らないのり」を「ヤマト糊」と名付けたのは、「矢に的が当たる=商売が大当たりするように」と願ってのことである。弥吉は、この画期的なのりを自家用とするだけでなく商品とし、ヤマト糊をガラスの容器に入れて販売するなど、それまでにない革新的なアイデアを考案し、大八車に載せて売り歩いた。このころ考案された「丸的に矢=ヤマト」のトレードマークは、今も同社のロゴにあしらわれている。
しかし、木内弥吉には商売を引き継ぐ子がなかった。そこで訪れた大きな転機は、かねて親交のあった呉服繊維商・長谷甚商店による買収だった。今でいうM&Aだ。これが、長谷川家が代々経営を担うヤマトの出発点である。
以降、ヤマト糊の看板は長谷甚商店に引き継がれた。絶対的な高品質に加えて販路拡大の成功により、ヤマト糊はみるみる巷の評判を獲得していったのである。
家訓「一代一起業」が生んだイノベーション
長谷川家には「一代一起業」という家訓がある。読んで字のごとく「一代ごとに何かしら新しい事業を起こせ」という教えだ。
一子相伝で1つの事業を受け継ぐのではなく、新規事業を開拓せよ。初代・甚之助の呉服・繊維商以降、2代目から現在の4代目においてもその哲学は確実に具現化されている。
2代目・武雄が経営を担っていた戦時中は、のりの原料である米も芋もとうもろこしも、すべて食糧として統制されてしまった。苦肉の策として、武雄は彼岸花やダリアなどの植物の球根から澱粉を抽出し、のりの原料として使用した。さらに、加熱処理をしない化学的処理を施し、より強力で劣化しない澱粉糊を作る「冷糊法」を完成。のちに製法特許を獲得する。
さらに食品会社を買収し、保存食を海軍に納品する事業も行った。戦争による経済逼迫という社会情勢のなかで、何とか糊口をしのぐための事業だった。まさに戦争と共に歩む時代だった。
戦争が終わり、日本が一面焼け野原から再出発したころに経営を受け継いだのは、3代目・澄雄である。澄雄が始めた新しい試みは、ヤマト糊を入れる容器をガラスや陶器からプラスチックに切り替えることだった。
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