アメリカの高校生が学ぶ「環境経済学」の超基本 持続可能な経済成長をどのように実現するか
たとえば、スイスアルプスのチーズ農家は、高地の牧草地を共同で管理している。彼らはコモンズの過放牧を避けるために、その場所で越冬した牛だけに放牧を許可するという解決策を編み出した。この取り決めがあれば、夏だけ高地の牧草地に牛を連れてくることができなくなる。
また、コモンズを利用する農家は、高地で牛を越冬させるコストを負担しなければならないので、できるだけ効率的に牧草地を管理するインセンティブも発生する。ちなみにスイスのチーズ農家がこの解決策を思いついたのは、今から800年前のことだ。
私たちはここから何を学ぶことができるのか。それは、モンタナの酪農家がコモンズで牛を放牧したいなら、遠いワシントンで働く536人の弁護士と1000人の役人に任せるより、自分たちで話し合って過放牧の問題を解決したほうが効率的だということだ。
汚染する権利
公害は経済的にも悪いことだ。とはいえ、すべての生産工程で何らかの汚染が発生するので、汚染をゼロにするという目標も現実的ではない。どの程度の公害であれば許容範囲なのだろうか?
正しい汚染量、あるいは「社会的に最適」な汚染量は、生産による社会の限界効用と限界費用がイコールになると達成される。つまり企業は、生産による効用が、生産が生み出す公害などの費用とイコールになるまで生産しなければならない。
コモンズの悲劇でも見たように、企業には、社会的に最適な生産量を守るインセンティブがないことが多い。公害のコストを負担するのは企業ではない。そのため、生産量を増やしすぎ、そして汚染も増やしすぎるという結果になる。
企業に汚染の適正量を守らせるには、公害のコストを企業に負担させるしくみが必要だ。まず考えられるのは、課税する、汚染物質を排出する権利(排出権)を販売するという方法だ。他にも、公害の影響を受ける人たち、つまり公害のコストを負担する人たちが、汚染源の企業と交渉して金銭の支払いを要求するという方法もある。
この世に「きれいな空気」も「きれいな水」も存在しない。すべてただの水か空気であり、汚染の度合いがそれぞれで違うだけだ。ここでの問題は、どの程度の汚染までなら耐えられるかということだ。環境問題は現実的、かつ合理的に考えなければならない。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら