大隈重信没後百年「早稲田の源流」は長崎にあった 教育者の原点と知られざる医学発展への貢献

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八太郎の人生を変えたのは、長崎でのオランダ人宣教師、フルベッキとの出会いだった。フルベッキは、天保元年(1830年)、オランダで生まれ、22歳のとき、労働移民としてアメリカに渡った。志願して、安政6年(1859年)、29歳のときに来日した。

そのフルベッキの指導を受けているうちに、八太郎は英語学校設立を模索するようになった。そして、慶応元年(1865年)、フルベッキを講師に迎え、英語学校「致遠館(ちえんかん)」を開校した。英語のほか、アメリカ独立宣言や米国憲法を日本で初めて講義した。同時に、政治、経済、法学、軍事、理学を正課とした。

フルベッキはオランダの理工科学校で学んでいたので、機械や橋梁、土木、築城、それに数学の知識も持っていた。また、歴史や法律にも詳しかったので教師としては申し分のない資格を有していた。

この「致遠館」での教育体験が、後の早稲田大学につながったといえる。ワセダの源流はここにあったのである。大隈が英語学校で培った、地球的視野と国際交流重視の姿勢は、ワセダの遺伝子として、現在もなお大学教育に引き継がれている。

大隈がドイツ医学採用を決定

早稲田大学に現在、医学部は設置されていない。医学部開設は、以前からOBや大学関係者の大きな関心事の1つである。

ここで歴史をひも解くと、大隈と医学は大いに関係があるのがわかる。明治新政府下、日本の医学に西洋の最新医学を導入するにあたって、イギリスとドイツ、どちらの国の医学を採用するかで意見が割れた。ほぼイギリス医学に傾いていたのだが、明治2年(1869年)ドイツ医学に決まった。

医学史をみると、日本は江戸時代後期に蘭方医学が盛んとなったが、その蘭方は元をたどるとドイツ医学に端を発している。その流れがドイツ医学採用を決定づけた。じつは、医学採用の最終段階のキーマンが新政府で頭角をあらわした大隈だった。長崎時代に指導を受けたフルベッキが新政府の顧問の任を受けていて、そのフルベッキもドイツ医学を推薦したのである。

現在、大学の建っている早稲田の土地の一部は、松本良順が日本初の民間病院「蘭疇舎(らんちゅうしゃ)」を設置した場所だった。松本良順は佐倉順天堂の初代堂主・佐藤泰然の次男で長崎において蘭学を修めた。幕末期、戊辰戦争時、幕府軍に従って出征し、新政府の下、刑に処せられたが、赦されて開設したのが蘭疇舎だった。後に、初代の陸軍軍医総監に就いている。

さらに、大隈はアジア地域の医療に寄与する民間組織「同仁会(どうじんかい)」の会長職を永年にわたり務めている。同時に、大学内に東京同仁医薬学校を開設したものの、経営難にみまわれ閉校になっている。これだけ医学と関係の深い大隈と早稲田にありながら、医学部がないのは不可思議ではある。

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