楽天・星野監督が見せた、男の引き際 あの「鬼の形相」には、もうお目にかかれない

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数字的にまだ優勝の可能性が残っている段階で「退団」と書かれたくなかったのには訳がある。数日後、辞任を表明した際には「首位を走りながら逆転された責任を取って」と説明したが、頸椎の状態がよくないという健康上の問題に加えてもうひとつ、口にできない理由があった。

「最後の1年ぐらい、一緒におってやってもええやろ」

扶沙子夫人が白血病で「余命1年」と診断されていたのだ。懐刀の島野育男コーチ(故人)には、涙ながらに「最後の1年ぐらい、一緒におってやってもええやろ」と訴えていたという。

ユニホームを脱いだおかげか、夫人は1年どころか、星野さんが中日監督に復帰して2年目の1997年1月30日に亡くなるまで、ずっと燃える男のそばにいた。

星野さんはその後、2001年限りで中日を追われ、阪神からチーム再建を託された。2年目の2003年に18年ぶりのリーグ優勝に導きながら、高血圧症に不整脈、糖尿病など健康上の理由で辞任。シニアディレクター(SD)として球団に残った。

今回は、昨年のオフ新たに結んだ3年契約を2年残しての退任。難病の胸椎黄色靱帯骨化症1腰椎椎間板ヘルニアが引き金になったが、阪神時代と同じようにフロントに残るのは間違いない。

現役時代に2度、監督として中日で2度、阪神で1度リーグ優勝しながら届かなかった日本一。楽天でやっと上り詰めた。もう二度とユニホームを着ることはないだろう。

辞意を伝えたミーティング。星野さんは選手にこう宣言したらしい。

「俺はいつまでもうるさいじいさんでいるぞ。小うるさいぞ。覚悟しとけ!」

でも、あの鬼の形相にはもうお目にかかれないんだろうなあ。

永瀬 郷太郎 スポーツニッポン新聞社特別編集委員

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ながせ ごうたろう

1955年、岡山市生まれ。早稲田大学卒。1980年、スポーツニッポン新聞東京本社入社。1982年からプロ野球担当になり、巨人、西武の番記者を歴任。2001年から編集委員。2005年に「ドキュメント パ・リーグ発」、2006年は「ボールパークを行く」などの連載記事を手掛ける。共著に『たかが江川されど江川』(新潮社)がある。野球殿堂競技者表彰委員会代表幹事。
 

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