小林一茶に学ぶ「生きづらさ」飄々とやりすごす術 「親ガチャ」「縁故社会」…江戸時代も辛かった!
はたして「新しい資本主義」を掲げる岸田新政権は「縁故資本主義」を脱し、悪しき流れを大きく変えてくれるでしょうか。
物質的な豊かさよりも文化的なコミュニティ
一茶は「親ガチャ」を克服しました。
とはいえ、裕福になったわけではありません。俳句の世界において名声を手にしましたが、生活自体は質素なものでした。
親しい友人はもちろん、どんな高貴な人が来ても欠けた茶碗でおもてなしするほかない、といっています。一茶には立派な茶碗でおもてなしするような経済的な余裕は無かったのです。
しかし、この句、どこか楽しげです。馥郁とした梅の花の香りに楽しげな気分が感じられます。お金の余裕は感じられませんが、心の余裕が感じられます。一茶は清貧を楽しんでいるのです。
江戸の市中でひっそりと一人暮らしをしている一茶のもとには、俳句の仲間たちがしばしば訪ねに来てくれたのです。欠け茶碗による清貧のおもてなしを心から楽しんでくれる仲間がいること、その喜びがしみじみとこの俳句から感じられます。
コネとカネの付き合いではなく、そうした世俗的なものを取り払った上でのまっさらな心のつながりが俳句にはあったのです。
一茶が「親ガチャ」を克服するその支えとして、「俳句コミュニティ」の存在がありました。それは先述の葛飾派であったり、身分や立場を超えて一茶と交流した札差の夏目成美とその仲間たちであったり、一茶を師と仰いだ門弟たちとの俳句を通したネットワーク、つながりです。
一茶の周囲には一茶のことを理解し、共に清貧を風流として楽しんでくれる仲間がいました。これは孤独な一茶にとって、何よりも大きな心の支えであったことでしょう。
「親ガチャ」に外れ、最底辺の無宿人の状態から、俳人として独り立ちするところまで一茶が這い上がることができたのは、まずは何よりも本人の努力があってのことでしょう。
しかし、その前提として、「俳句コミュニティ」が存在していたことを見逃すわけにはいきません。それはコネやカネ、身分といった世俗的価値観ではなく、あくまでも俳句本位で人と人がつながる文化的コミュニティです。
たとえ「親ガチャ」でハズレを引いても、努力によって挽回できることを一茶は示しています。しかし、一人の力だけでは限界があります。個人を支える文化的コミュニティがあってはじめて可能になることです。
俳句にかぎらず、さまざまな文化的コミュニティが増えていくことで、格差によって荒れ果ててしまった現代社会は潤いのあるものになっていくかもしれません。
格差にめげていては何も始まりません。一茶は時代を超えて、わたしたちを励ましてくれています。
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