小林一茶に学ぶ「生きづらさ」飄々とやりすごす術 「親ガチャ」「縁故社会」…江戸時代も辛かった!

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

「親ガチャ」という言葉ですが、カプセルトイの「ガチャガチャ」やオンラインゲームの課金で電子くじを引くことになぞらえたもので、子どもは親を選べず、どんな家庭環境に生まれるかは運任せであることを指します。2021年の流行語にもなりましたので、ご存じの方も多いと思います。

望むような家庭環境にないことを「親ガチャに外れた」と言うわけですが、その言葉には家庭環境によって人生がほぼ決まってしまうことに対する若者の諦めの空気が漂っています。その背景として格差社会のひずみが大きな影を落としていることは述べるまでもありません。

一茶の場合、小林家の長男として父祖代々の田畑を守っていくことが、本来あるべき運命でしたが、自分が生んだ子に家を継がせたい継母の意向により、15歳で江戸へ奉公に出されてしまいます。

江戸へ出た奉公人のうち、商売で成功できるのは、ほんの一握りでした。その多くは出世も独立も叶わず、経済的に苦しいため、なかなか結婚もできません。その環境の厳しさから奉公先を逃げ出す例も多かったようです。一茶もうまくいきませんでした。

十代の一茶は住む場所もない無宿人のような状態になって、江戸の市中をさまよい歩きました。最底辺の暮らしです。

一茶は「親ガチャ」に外れたことによって、どん底に叩き落されたのです。

しかし、一茶は「親ガチャ」をたくましく乗り越えます。

江戸時代は意外と「能力主義」だった

一茶が生きた時代は現代社会以上に厳しい格差社会でした。

生まれた家の格をもとに身分を明確に分けられた階級社会です。しかし、そのいっぽうで能力主義的な側面がありました。

たとえば一茶と同時代の二宮金次郎がよい例です。

一茶と同じく農家に生まれた金次郎でしたが、破産状態にあった家の家計を立て直します。それを聞きつけた小田原藩家老の服部十郎兵衛に服部家の財務の立て直しを依頼され、これも見事に成し遂げます。それにより金次郎は小田原藩や幕府に取り立てられることになりました。

時代劇で有名な大岡越前守忠相もまたよい例です。もともと下級の旗本でしたが、8代将軍吉宗に高く評価され、40歳という異例の若さで南町奉行に抜擢されました。

また、その功績には賛否がありますが、田沼意次も大抜擢を受けた人物の1人です。老中は基本的に譜代の大名から選ばれるものでしたが、意次は小姓の身から老中まで上り詰めました。老中就任後は意次自身も小野一吉らを抜擢しています。

こうした実力主義の流れは幕末まで続きます。

勝海舟は下級の旗本でしたが、身分を問わない人材の登用や軍艦建造の必要性を説いた「海防意見書」を幕府に提出しました。それが評価され、目付海防掛に取り立てられます。勝はその後、江戸城無血開城など、明治維新において大きな功績を残すことは、よく知られているとおりです。

幕府や各藩には厳しい階級制度の中にも、才能と実力があれば抜擢されるという柔軟で風通しのよい実力主義の風潮がありました。

次ページ俳句の世界も「実力主義」だった
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事