「女遊びで評判落とした武将」の意外すぎる最期 鬼神のごとき戦いぶりを見せた薄田兼相の一生

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私は、そうではないと思う。この男は、次の戦いで、自分の汚名を返上できることだけを切望して、城内に残留したのだと考える。

たとえ、兼相が岩見重太郎でなかったとしても、彼がすぐれた兵法者であることには変わりない。それゆえ、自分の雄姿を世間に知らしめ、博労淵での汚名をすすごうとしたのであろう。この男には、己の生命より名誉回復のほうが、ずっと大切だったのである。

命より名を重んじる。もちろんそれは、大坂城に残った兵士の大半にあてはまる気持ちだったと思われる。絶望的な戦いにあえて立ち向かってゆくことで、彼らは自分の名が後世に残ると信じたのである。こうした精神構造は、名よりも実を重んじる、今日のわれわれには想像しにくいかもしれない。

相手は十万に膨れあがった幕府の大軍

さて、兼相である。彼の見せ場は、夏の陣で突然やってくる。

すでに、大坂城には堀がない。しかも周囲は広大な平坦地。もし幕府軍の来襲を受けたら、城を防御する手だてはない。そこで真田幸村(信繁)、後藤又兵衛、毛利勝永らは、大和方面から進軍してくる幕府軍を、狭隘な国分峠あたりで待ち受け、総力を結集し、撃退しようと考え、5月6日の夜明け前に道明寺(国分の手前)付近で合流することを決めた。

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だが、当日は濃霧がただよい、各軍の到着が大幅に遅れた。このとき、最初に道明寺についた後藤又兵衛は、後続部隊の到着を待たずに進軍し、小松山に陣取り数時間にわたって、雲集する数万の幕府軍を手こずらせた。

しかし、やがて又兵衛は力尽きて倒れ、後藤隊は壊滅する。400の兵を連れた兼相が道明寺に到着したのは、ちょうどその頃だった。

後藤隊の敗残兵がくたくたになって退却してきたが、そのはるか彼方に、黒い固まりが見えた。今や十万に膨れあがった幕府の大軍であった。

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