「女遊びで評判落とした武将」の意外すぎる最期 鬼神のごとき戦いぶりを見せた薄田兼相の一生

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徳川幕府と決裂した大坂城の豊臣氏は、冬の陣の直前、幕府軍の来襲に備え、多くの砦を急造して兵士を入れた。その最大のものが、木津川のほとりの博労淵砦(ばくろうぶちとりで)であり、砦の大将に選ばれたのが薄田兼相だった。

砦には、およそ700の兵が籠もり、木津川からのぼってくる幕府軍を警戒するとともに、偵察に来た敵兵を、蘆の茂みを楯にして巧みに射殺していた。

このわずらわしい博労淵砦を奪ってしまおうと計画したのが、幕府方の蜂須賀至鎮だった。至鎮は、博労淵の周辺より避難してきた商人から、砦の守備があまり堅牢でないことを聞き知っていた。功を成すチャンスである。そこで至鎮は、幕府に攻撃許可を求めたが、どうしたわけか幕府は、これを許さず、博労淵の攻略は石川忠総に命じたのである。

石川隊は、11月28日深夜、2300の兵を率いて、博労淵の対岸に浮かぶ葦島に密かに上陸し、臨戦態勢を整えたのち、翌日未明、小舟に分乗して博労淵を目指した。

敵の接近に気づいた博労淵の守備兵は、盛んに櫓上から鉄砲を放ったため、石川隊は多大な犠牲者を出した。

この物音に気づいたのが、先の蜂須賀至鎮だった。至鎮は遅れてはならずと、部下を叱咤して博労淵へ向かわせた。石川隊も激しい銃弾が注がれるなか、渡河を強行して敵前上陸を敢行した。こうして石川隊と蜂須賀隊が来襲すると、守備兵は戦わずして逃げ散った。かくして博労淵は難なく、幕府方の手に落ちた。

女遊びのせいで志気はガタ落ち

この襲撃が敢行された日、守備隊長の薄田兼相は砦にいなかった。よんどころのない用事で留守にしていたわけではない。驚くべきことにこの男、前夜から近村の遊女屋に入り浸って、女を抱き続けていたのである。

大将がそんなことでは、守備兵たちの志気が上がるはずもない。敵前逃亡したのも無理からぬことだった。敵の接近を聞いて兼相が駆けつけたときには、すでに砦は敵の手中に落ちていた。この日から兼相は、橙武者と陰口を叩かれるようになったのである。

ただ、兼相は橙武者という嘲笑を受けながらも、冬の陣の後も大坂城に残った。講和によって堀を埋められた大坂城は裸城となり、豊臣方の重臣たちの多くが幕府方に寝返って城を撤退していた。そのため、当初は十万人いた城兵もだんだんに逃げてしまい、夏の陣のさいには、半数近くに減ってしまっていた。

もはや、豊臣氏を待っているのは、決して勝ち目のない戦だった。そうした現状を知りつつも、また、皆に橙武者と馬鹿にされながらも、なぜ兼相は城内に踏みとどまったのだろう。それは、純粋に豊臣秀頼に対する忠義心からなのか――。

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