JR相模線、「砂利鉄」の過去に消えた支線の秘密 廃線の跡には明治以降の「歴史遺産」が残る

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西寒川支線の戦後の歴史も整理しておくことにする。

西寒川支線は、戦後は再び貨物専用線となったが、高度経済成長期に海軍工廠跡地周辺への工場進出が進んだのに伴い、1960年11月、旅客営業を再開した。

西寒川支線ラストランの日に「さよなら運転記念」のヘッドマークを付けて走る気動車(写真:森和彦)

しかし、西寒川駅を発着する旅客列車は、1日にわずか4往復という非常に細々とした支線だったのに加え、モータリゼーションが進み、各工場も自前の送迎バスを運転したことなどから旅客輸送は振るわず、廃止2年前の1982年の西寒川駅の1日の乗降客数は、わずか135人にすぎなかった。

結局1984年3月31日付で西寒川支線は廃止となり、その後、廃線跡は「一之宮緑道」として整備され、部分的ではあるものの、レールと枕木が廃線当時のままに残されている。鉄道が廃止されるとレールが撤去されてしまうケースがほとんどである中、このように保存されているのは、大変珍しい例である。

レールに刻まれた「皇紀」

前述の森さんは、このレールは単なるモニュメント以上の歴史遺産としての価値があると言い、独自に行った調査について以下のように話す。

「1909」の刻印がある明治時代に製造されたレール(筆者撮影)

「一之宮公園沿いに残っている36本と、西寒川駅跡である八角広場に残っている6本、合計42本のレールの『刻印』を調査しました。刻印からは製造場所や製造年などがわかります。不明のもの4本を除き、製造場所はすべて九州の八幡製鉄所です。また、製造年は明治、大正、昭和にまたがっており、最も古いのが1909(明治42)年の製造。さらに、2605年、2606年と、いわゆる皇紀で製造年が刻まれているものもあります」(皇紀2605年は1945年=昭和20年)

「残念ながら、錆びて刻印が見えづらくなってきているレールもありますが、明治、大正、昭和の3時代のレールが最後まで現役で使われていたことを示す貴重な歴史遺産。未来永劫残す努力をしていかなければなりません」

かつて砂利輸送を支え、支線の廃線跡には明治以降の貴重な遺産が残る相模線。普段は地味な路線だが、新型車両投入を機に、その歴史を振り返る旅に出かけてみるのも興味深いのではないだろうか。

森川 天喜 旅行・鉄道作家、ジャーナリスト

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もりかわ あき / Aki Morikawa

現在、神奈川県観光協会理事、鎌倉ペンクラブ会員。旅行、鉄道、ホテル、都市開発など幅広いジャンルの取材記事を雑誌、オンライン問わず寄稿。メディア出演、連載多数。近著に『湘南モノレール50年の軌跡』(2023年5月 神奈川新聞社刊)、『かながわ鉄道廃線紀行』(2024年10月 神奈川新聞社刊)など

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