JR相模線、「砂利鉄」の過去に消えた支線の秘密 廃線の跡には明治以降の「歴史遺産」が残る
相模鉄道は、こうした背景から茅ケ崎―寒川間の本線開通と同時に、川寒川支線(寒川―川寒川間)、翌1922年5月には、後に西寒川支線となる四之宮支線(寒川―四之宮間)という2本の砂利採取専用線を敷設し、川砂利の輸送を開始した。このようにして、「砂利鉄」とも呼ばれる相模線の歴史が始まったのである。
開業後の相模鉄道の営業収支は、旅客・貨物ともに開業前の予想をはるかに下回り、苦しい経営が続いた。しかし、1923年9月1日に南関東を中心に甚大な被害をもたらした関東大震災が起きると、状況が一変する。東京、横浜を中心に、震災からの復興に大量の砂利が必要とされたのだ。
神奈川新聞の前身である横浜貿易新報の1924年5月2日付の記事は、「目下両駅(茅ケ崎―寒川)間一日十回の客車を往復せしむるのみなるも相当乗客あり相模川の砂利運搬には河畔より茅ケ崎駅まで毎日九十の貨車を動かし居る」と、砂利輸送の活況を伝えている。
砂利需要好調受け橋本へ延伸
こうして、相模鉄道の貨物輸送量は年々伸びていき、昭和初期の1928年から1929年にピークを迎える。この好業績を受け、相模鉄道は路線を徐々に延伸し、1931年4月、ついに橋本までの全通を果たした。
ところが、この頃になると震災からの復興事業が一段落し、また、1929年に始まった世界恐慌の余波を受けるなど、再び業績低迷を余儀なくされた。1931年度上期の事業報告書には、深刻な不況の打開策として「厚木、橋本間新線ノ開通ト相俟チテ砂利の採取販売ヲ直営トナシ」と、砂利の採取・販売の直営に乗り出したことが記載されている。
その後、相模鉄道の砂利業は次第に発展していったものの、業績が本格的に回復するのは、昭和10年代に入り、沿線に市ヶ谷から移転してきた陸軍士官学校をはじめとする軍施設や工場の建設が始まり、軍関係の輸送が増えるのを待たなければならなかった。
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