JR相模線、「砂利鉄」の過去に消えた支線の秘密 廃線の跡には明治以降の「歴史遺産」が残る
川寒川支線と西寒川支線は、前述の通りともに砂利採取専用線としてスタートした。しかし、川寒川支線は早くも1931年に廃止になった。
廃止の理由について明確に書かれた資料は今のところ見つかっていない。だが、寒川の歴史に詳しい寒川町観光ボランティアガイドの森和彦さんは、「1933年に日本初の広域水道となる神奈川県営水道が創設され、1936年には浄水場が付近に建てられた。おそらく川寒川の砂利採取場所と、取水場所が重なったのではないかと推測している」と話す。
もう1つの支線は軍需輸送に
一方の西寒川支線は、寒川と四之宮の間の貨物駅「東河原駅」(後の西寒川駅)付近に昭和産業一之宮工場が招致されると、1939年に東河原駅を昭和産業駅と改称し、通勤客を運ぶための旅客営業を開始した。この昭和産業の工場は、1942年に海軍技術研究所に変わり、さらに1943年5月には相模海軍工廠(こうしょう)に昇格し、「イペリット」という毒ガスなどの化学兵器を生産した。
相模鉄道は1941年に五島慶太率いる東京横浜電鉄(後の東京急行電鉄、東急)の傘下に入り、さらに1943年4月には同じく東急傘下に入っていた神中鉄道(横浜―海老名間、現在の相鉄本線)を吸収合併し、新たな相模鉄道となった。次いで翌1944年6月には、茅ケ崎―橋本間の本線と西寒川支線が国に買収された。ちなみに、昭和産業駅は、昭和産業の工場が海軍に買収されると四之宮口駅、さらに相模線が国有化されたのと同時に西寒川駅と改称されている。
戦後は、旧神中鉄道部分が私鉄の相模鉄道(相鉄)、旧相模鉄道部分が国鉄相模線として歩み始め、別々の歴史を刻むことになった。
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