渋沢栄一が断言した「いい仕事がこない人」の欠点 「日本資本主義の父」に学ぶ仕事の進め方の要諦
渋沢は後に「役に立つ青年は、ちょうど磁石のようなもので、人に頼んで仕事を与えてもらわなくとも、自分に仕事を引き付けるだけの力を持っておる」と語っています。青年に仕事がないのは、自分で仕事をするのを希望しないか、その仕事をするだけの実力がないかのどちらかだ、とまで言っているのです。
そのうえで、どのような小さなつまらない仕事でも懸命に励んでするようでなければ、重要な仕事は回ってこない=出世はできないと渋沢はアドバイスをしています。
さて、渋沢は兵隊を編成するための兵員を農民から集めるため、備中国(岡山県西部)の井原村に向かいます。一橋家の領地は、摂津国に1万5000石、和泉国に8000石、播磨国に2万石、備中国に3万2000石、関東に2万石ありました。
渋沢はまず、大坂の代官所を訪問。そのときに代官から「備中のほうから募集されてはどうか。備中ができれば摂津、和泉、播磨国はたやすくできると思います」との助言を受け、備中から始めることとなったのです。
これは筆者の推測ですが、大坂の代官に「うっとうしい奴が来た」と思われて、追い払われたようにも感じます。
井原村の農民はいつまでたっても応じず
渋沢は御目見以上の特権であるかごに乗り、井原村を訪れ、代官に「村々の二男・三男で志ある者をすみやかに召し連れろ」と命じます。
ところが、代官から「直接、ご自分で申し渡すほうがよいと思われます」との言葉を受けます。そこで、陣屋の白洲で直々に声かけするも「すぐにお請けいたします」との返事だけで、いつまでたっても応じる者はいませんでした。
厳しく言い渡したり、時に「器量しだいで、立身功名のできる世の中であるから、土臭い百姓で生涯を終わるよりは、ここで奮発して出るがよい」と激励したりもしましたが、誰も応じてくれません。
渋沢は何か理由があるはずと思いつつも、それがわからぬので、少し気長に考えて待つことにしました。
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