田園調布の住民が「東横線の開業」を恐れたワケ 阪急総帥はあきれた?渋沢栄一「こだわりの街」

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通常なら、道路率が10%もあればゆったりとした空間になる。だが理想に燃える渋沢は、並大抵のことでは満足しない。田園調布の道路率を18%まで引き上げた。参謀役の小林は、常識外の道路率に驚きを通り越してあきれるばかりだったという。

渋沢は街路や公園といった公的なインフラだけではなく、個々の住宅にも厳しい制限を課した。敷地に占める住宅の割合は建蔽率という数値で表すが、田園調布では50%という建蔽率の上限が設けられた。つまり敷地面積のうち半分は住宅として使用できない。そのうえ、3階以上は建築不可。こうした制限により、田園調布は圧迫感のない街並みになり、空を広く感じさせることになった。

制限はこのほかにもある。家の前に塀を設けることは許されず、その代替として生垣や高木にすることまで決められた。また、高級な街並みであることを維持するため安普請は許されず、坪あたりの住宅工費に下限まで設けた。こうした渋沢の理想を追求する姿勢によって、上質な住宅地の田園調布が整備されていく。

海軍関係者の洋館がずらり

また、洋館が多かったことも、田園調布を高級住宅街へと押し上げる要因につながっていく。和風住宅の建築は禁止していなかったが、もともと世田谷には海軍出身者が多く家を構えていた。

奥沢駅近くに造成された海軍村。現在も、当時の面影を伝える住宅がわずかながら残る(筆者撮影)

海軍関係者たちは洋館を好み、田園調布から近い奥沢には「海軍村」と呼ばれる洋館が立ち並ぶ一画が形成されていた。その影響から、海軍大将の財部彪の長男・武雄が田園調布に家を構えるなど、海軍関係者によって盛んに住宅が建てられている。

田園調布に建てられた海軍関係者の住宅は、その多くを海軍技師の住木直二が設計。ハワイ帰りの大工たちによって施工された。

これら海軍関係者たちの住宅が目新しかったのは外観だけではない。ツーバイフォーと呼ばれる当時としては最新鋭の構法が用いられた。日本国内でツーバイフォー構法が一般的に普及するのは高度経済成長期で、住宅不足を見越した三井不動産が住宅建設をスピードアップする目的から積極的に採用。そうした面から見ても、田園調布の住宅は最先端だった。

そして、渋沢は肝心の鉄道とその乗降場となる駅にも力を注いだ。街にとって、駅は扇の要でもある。それだけに、一人の優れたデザイナーに担当させて、街に統一感を持たせる必要があった。

渋沢のお眼鏡に叶ったのは、矢部金太郎という建築家だった。矢部の経歴は詳細にわかっていないが、東京美術学校を卒業後に内務省へ入省し、明治神宮の造営計画に携わったようだ。

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