田園調布の住民が「東横線の開業」を恐れたワケ 阪急総帥はあきれた?渋沢栄一「こだわりの街」
鉄道部門を立ち上げたものの、田園都市株式会社には鉄道事業のノウハウを持つ経営陣はいなかった。渋沢は全国各地で多くの鉄道事業を立ち上げているが、現場を仕切ることについては専門外だった。そこで、関西で鉄道事業を成功させていた阪急電鉄の総帥・小林一三に協力を求めた。小林はすでに自社沿線の郊外に住宅地を造成し、渋沢の先を走っていた。
小林は自身の地盤が関西であることを理由に渋沢からの要請を固辞するが、最終的に渋沢の粘り強い説得に折れた。月に一度の会議に出席するという条件をつけ、そのたびに上京するようになった。しかし、経営陣は小林が決めた方針を理解できず、遅々として実行されなかった。
業を煮やした小林は立案した方針の実行役として、元官僚の五島慶太をヘッドハンティングする。五島は目黒蒲田電鉄の責任者に着任して渋沢の田園都市づくりを手伝い、最終的には東急の総帥として君臨することになる。
街並みはパリかアメリカか
鉄道という足を確保した田園都市株式会社は、駅を中心に据えた都市計画を策定した。駅から放射状に街路が延び、環状道路が街を囲むエトワール状と形容される街並みは、フランス・パリの凱旋門を中心とした都市構造に似ていることもあり、田園調布はパリを参考にして計画された、とも言われる。
渋沢は幕末にパリへと渡り、そこで近代国家や経済のシステムを体験。銀行・電気・ガスといった営利事業や病院・学校などの非営利事業はすべてその経験に基づいている。そのバッググラウンドがあるため、田園調布とパリは結びつけやすいのかもしれない。
だが、息子の秀雄はパリの街並みに魅力を感じなかった。秀雄は視察で訪れたアメリカのサンフランシスコ郊外にあるセント・フランシス・ウッドという住宅地に魅了され、田園調布はその街の考え方をベースに整備されていった。
一方、渋沢は田園調布を造成するにあたり、オープンスペースの重要性を説いた。そのため、一帯は道路のみならず公園や広場などに敷地を多く割くことになった。道路を含めたオープンスペースの割合は道路率という指標で表すが、この率が高くなると宅地として販売する敷地が少なくなる。つまり、渋沢の考え方で造成すれば田園都市株式会社は儲からない。しかし、そんなことはお構いなしだった。
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