大岡山は東急「ブランド化戦略」の出発地だった 大震災後に学校誘致「文教都市」イメージを構築
東急グループは渋谷を地盤に一大王国を築く。主力は鉄道だが、不動産・小売業など幅広い事業を展開し、その影響力は東京南西部や川崎市・横浜市といった自社沿線だけにとどまらない。「TOKYU」のブランド力は私鉄随一と言っても過言ではない。
グループの中核である東急株式会社は2019年に「東京急行電鉄」から社名を変更。不動産事業などを残し、鉄道事業は新たに設立した子会社の東急電鉄に分離した。これは、鉄道を主軸とした企業から、鉄道・不動産・流通小売など総合的な企業としての色彩をより強めていく宣言ともいえる。
だが、東急の前身である目黒蒲田電鉄は、不動産事業を手がける田園都市株式会社の鉄道部門という位置付けだった。つまり、東急電鉄から鉄道を切り離しての社名変更は、原点回帰ということになる。
渋沢栄一最後の夢「田園都市」
東急のルーツでもある田園都市株式会社は渋沢栄一が1918年に設立。それだけに、渋沢は東急と深い関係にある。生涯で約500社ともいわれる企業を興した来歴から資本主義の父と呼ばれるが、それ以上に都市をつくることにも尋常ならざる情熱を燃やし続けた。
渋沢とまちづくりと言われてもピンとくる人は少ないだろう。しかし、渋沢は大蔵省へと出仕していた1870年からまちづくりに携わっている。最初に関与したのは、東京証券取引所があり今日まで証券の街と形容される日本橋の兜町だ。兜町は渋沢と、その上司にあたる井上馨によって計画・造成された。続いて手掛けたのは銀座煉瓦街だ。銀座は1872年に起きた大火によって焼失。井上と渋沢は、西洋風の街として銀座を再建した。
その後、渋沢は民間に転じたが、東京駅の位置をどこに定めるのか? といったことを議論する東京市区改正計画にも有識者として加わり、川崎臨海部を埋め立てて工業地帯を造成する際にも積極的に協力。渋沢の力なくして、帝都・東京の繁栄はなかった。
そんな渋沢が最後の夢としていたのが「田園都市」だった。渋沢は1916年に第一銀行(現・みずほ銀行)の頭取を退任し、経済界の一線から身を引く。そして、田園都市の実現へと邁進する。
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