大岡山は東急「ブランド化戦略」の出発地だった 大震災後に学校誘致「文教都市」イメージを構築
洗足田園都市に引っ越してきた住民たちの多くは「協調会」からの斡旋で住宅を購入していた。協調会とは労使関係を調停する目的の財団法人で、1920年に渋沢が設立。同会は労働者側の立場で労使交渉をまとめることが多かったが、ほかに労働者の生活改善などにも取り組んでいた。洗足田園都市の住宅斡旋も、その一環だった。
協調会が斡旋してもなお、洗足田園都市に建設された住宅の売れ行きはいいとは言えなかった。その理由は、通勤の足が整備されていないことだった。それまでは職場と住居が一体となっているのが当たり前。田園都市の理念は職住を分離することで住環境の向上を目指すことにあったから、自宅と職場が分離するのは当然だった。
そして、職場と住居が分離すれば、職場までの足が必要になる。田園都市株式会社は目黒駅―蒲田駅を結ぶ鉄道を計画。分譲地の住民が職場へと通勤できるようにした。当初、この鉄道は田園都市株式会社の鉄道部門という位置付けだったが、1922年に目黒蒲田電鉄という鉄道会社として独立。これが現在の東急の前身とされる。
同社は1923年に目黒駅―丸子(現・沼部)駅間で電車の運行を開始。このときに洗足駅と大岡山駅も開業した。その後目黒蒲田電鉄は、田園都市の実現という役目を終えた親会社の田園都市株式会社を1928年に吸収している。
「洗足」名乗る駅が乱立
目黒蒲田電鉄は後に東急大井町線となる支線も建設し、その際には東洗足駅(後に旗の台駅と統合して廃止)を開業したほか、当初は「池月」として開業した駅(現・北千束)を洗足公園駅へと改称した。洗足池の周辺には「洗足」を名乗る駅が乱立したことになる。こうしたところからも、洗足には相当なブランド力があったことがうかがえる。
田園都市株式会社や現在の東急を語る上で、洗足田園都市の存在は無視できない。しかし、同社が手がけた最初の分譲地だったこともあり、完成度は高いとは言えなかった。だが、その状況は関東大震災によって一変する。周辺は震災による被害がほとんどなかった。そのため、郊外に位置する洗足田園都市の評価は高まった。
他方、関東大震災で東京都心部は壊滅的な被害を出した。蔵前にキャンパスを構えていた東京工業高等学校(現・東京工業大学)は、校舎などが被災し、とても学校を継続できる状態ではなかった。政府は明治以来、殖産興業の観点から技術者教育に力を入れていたこともあり、東京工業高等学校の壊滅は大きな痛手だった。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら