大岡山は東急「ブランド化戦略」の出発地だった 大震災後に学校誘致「文教都市」イメージを構築

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田園都市とは、イギリスの社会学者だったエベネザー・ハワードが提唱した理想的な都市像を指す。

当時のイギリスは産業革命により工業化が一気に進展し、一大消費地である首都・ロンドン近郊の都市には工場が立ち並んでいた。工業が活発化することで経済も活況となる。それに伴いロンドンおよび近郊都市の人口は急増。他方、工場からの排煙・排水が引き起こす大気汚染や水質汚染は都市の生活環境を悪化させた。ハワードは住環境を改善することを目指し、自然が豊かな郊外に家を構えて働くことを提唱する。

渋沢は、ハワードが提唱した田園都市に着目。日本でも実現することを目指して、1918年に田園都市株式会社を創業した。田園都市株式会社のオフィスは東京市麹町区(現・東京都千代田区)に置かれたが、渋沢は最初の分譲地として、洗足一帯を購入する。現在は目黒区に洗足、大田区に千束の地名があるが、田園都市株式会社が購入した土地は現在なら品川区・目黒区・大田区の3区にまたがるエリアだった。

渋沢に田園都市という新たなライフスタイルを持ちかけたのは、東京市長・尾崎行雄の秘書を務めていた畑弥右衛門だった。その畑が荏原郡(現・東京南西部および川崎市の一部)に田園都市を建設することを勧めた。

荏原郡と一口に言っても、かなり広い。荏原郡全体に田園都市を建設することは不可能だった。そこで田園都市株式会社は、手始めに荏原郡のうち洗足地区の約5万8000坪を購入。つづいて、ほぼ地続きとなっていた大岡山地区の約9万1000坪も購入する。

勝海舟の別荘もあった洗足

渋沢の理想とした田園都市が、豊かな自然のある郊外で暮らすことが田園都市のコンセプトだったとはいえ、なぜ渋沢は洗足を最初の分譲地に選んだのか? その理由は、明確にわかっていない。

勝海舟の別宅跡地は現在、区立中学校の敷地になっている。片隅には案内板が設置されている(筆者撮影)

大岡山地区と比べると、洗足地区で購入した土地面積は約半分と少ない。洗足と大岡山はそれほど離れていないが、洗足湖畔は江戸期からの景勝地でもあり、明治になると勝海舟が別荘を構えるなど人気が高まっていた。

そうした事情から、田園都市株式会社が進出する以前から洗足池やその周辺は地価が高騰していた。そのため、田園都市株式会社は土地を多く購入することができなかった。田園都市株式会社は購入した土地を宅地造成して販売。洗足・大岡山一帯は洗足田園都市と呼ばれるようになり、すぐに売り切れたといわれる。しかし、内情は異なっていた。

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