大岡山は東急「ブランド化戦略」の出発地だった 大震災後に学校誘致「文教都市」イメージを構築
東京工業高等学校は文部官僚だった手島精一が創立。手島と渋沢は国家の発展には工業振興が欠かせないという理念で一致しており、渋沢は協調会を通じて多額の金銭的支援をしている。
また、同校を語る上で避けて通れないのが、お雇い外国人のゴットフリード・ワグネルだ。ワグネルは来日直後に佐賀藩に招かれて、有田焼など窯業の近代化を推進。その功績から大学南校や東校で窯業の教授として教鞭を取ることになり、後に東京工業高等学校でも教授として後進の指導にあたった。
渋沢は窯業を日本の成長産業と捉え、ワグネルとともに旭焼と呼ばれる陶磁器の製造工場を設立しようと動いたこともある。旭焼は事業化できなかったが、ワグネルの指導を受けた陶芸家たちが各地で窯業の発展に努め、それらの技術は工芸品・美術品のほか、洋食器、はては建築資材として活用されていった。
関東大震災によって壊滅した東京工業高等学校は、渋沢との強い縁から敷地を大岡山駅前の土地と交換することになった。この土地交換の経緯には不透明な点も多く、それが復興局疑獄として世間を騒がしたが、土地交換により東京工業高等学校は大岡山駅前にキャンパスを移転した。
開発の中心地が大岡山に
これが大きな転機になり、洗足田園都市は大岡山駅を中心とした開発へとシフトしていった。
前述したように、目黒蒲田電鉄は洗足田園都市に通じる2つ目の鉄道路線として大井町駅からの支線を計画していた。同線は大井町駅―洗足駅間の計画で着工したが、洗足地区は地価が高くなっていたために用地買収は難航していた。
東京工業高等学校の移転によって大岡山駅の需要が生まれたため、目黒蒲田電鉄は支線のルートを同駅経由へと変更。こうした経緯から、大岡山駅は目黒蒲田電鉄の線路が交差する要衝になっていく。そして、駅前に東京工業高等学校が移転してきたことは、ルートの変更以上に目黒蒲田電鉄のターニングポイントになった。
私鉄が大学を誘致する背景には、学生需要による安定的な鉄道利用が見込めるという収支的な思惑もあるが、それ以上に大学が立地することで文教都市という沿線イメージを創出でき、沿線価値の向上につながる点にある。大岡山駅の東京工業高等学校は東急が取り組むブランド化戦略の嚆矢でもあり、東急のブランド戦略を決定づけた学校でもあった。
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