大岡山は東急「ブランド化戦略」の出発地だった 大震災後に学校誘致「文教都市」イメージを構築
現在の東急沿線には、日吉駅の慶應義塾大学や上野毛駅の多摩美術大学など、多くの大学がキャンパスを構えている。特に、日吉駅の慶應義塾大学は東急の総帥・五島慶太が用地を寄付してまで誘致した学校として語り継がれる存在でもある。
そして東急がモデルケースとなり、ほかの私鉄でも自社沿線に大学を誘致する動きが模倣されていく。多角的に沿線開発に取り組む私鉄にとって、沿線のブランド価値を高めることは経営戦略上も重要視されていった。
洗足田園都市の開発が進められていたころ、政府は東京の郊外が無秩序に開発されることを危惧し、1918年に都市計画法を制定。同法には、森林や水辺といった環境や景観を維持するための風致地区制度が盛り込まれていた。風致地区に指定されると、宅地開発や樹木の伐採が規制される。東京では善福寺や石神井といった10地域が風致地区に指定された。
「風致地区」指定で落ち着いた街保つ
もちろん、洗足池周辺も風致地区に指定されている。こうした指定を受け、地域住民たちは1933年に洗足風致協会を設立。一致団結して洗足池の管理にあたった。
翌年、目黒蒲田電鉄は同じ地域で覇権を争っていた池上電鉄(現・東急池上線)を合併。洗足風致協会は洗足池を池上電鉄に賃貸し、その賃貸料で水質浄化などの環境保全に取り組んでいた。
広大な路線網を有する目黒蒲田電鉄が池上電鉄を合併すれば、これまで以上に洗足池への行楽客が増えることが予想された。洗足風致協会は洗足池が乱開発されることを憂慮し、目黒蒲田電鉄の責任者だった五島慶太に対して洗足池の保全を求めるとともに、環境維持の費用を捻出する名目で賃貸料の値上げを要求する異議申述書を提出している。しかし、目黒蒲田電鉄は賃借料の値上げには応じず、風致協会との間で一悶着が起きることになった。これは目黒蒲田電鉄側が折れることで決着をみた。
その後、洗足田園都市は急速な開発が進められることなく、住宅街としての静穏を保った。1953年、大岡山駅前に東急病院を開院。同病院は建て替えのために2007年に大岡山駅上に移転して、日本初の駅上病院になった。その東急病院は、東京工業大学とともに大岡山駅のシンボルとなっている。
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